Another day comes 紫・電・一・閃 ~今日と違うはずの明日へ~

こんな俺でも いつかは光を浴びながら
きっと笑える 日が来るさ ・・・来るまで生きるぜ(生への渇望)

強請(ネダ)り

2016-11-27 03:03:38 | 日記
ないもの強請りの日々を過ごすうち、そんなに強請っても無理だと諦めがつく時がある。
別に今までだって欲しいもの(こと)なんか一杯あって、そのほとんどが手に入れることが出来ずに、
または理性やら状況がその入手の機会を奪ってきた。後者は人間として良いことだと思うけれども。
とはいえ、いっつも欲しがっているのは人間としてふつうのこと。
その「ふつう」が消え去る時が来るのだ。

かかわる世界がちいさいと、自ずと対峙するものが限られる。
人生そのものが収束しかかっていると勘違いするほどにかかわるものが少ないワタクシは、
大抵物欲と食欲と性欲と睡眠欲の、しかも数えきれる程度のものとしか対峙していない。
ワタクシの暗い展望の話はおいておくが。
で、対峙するものが少なく似たようなものだとパターン化することになる。
あたりまえのこと。刺激も少なく、ストレスは大きい。でも一応気は楽。
・・・一応言っておくが引き籠っている訳ではない。
自分のカラには完璧に籠ってしまったけれど。
こんな状態になれば、理性を使う必要も、考える必要すらなく本能が抑制されてもくる、ということだ。

言うなれば、クッソ熱いものに触れば本来反射が起こる筈なのに、何回かやっているうちに慣れている、的ななにか。
だが、お分かりの通り慣れているだけでこの場合やけどしているに違いない。
下手すれば大やけどかも知れない。
今の自分はどうだろう?
慣れている。
本当は?
悲しい?
苦しい?
痛い?



そして、消え去った「ふつう」が少し後に戻ってくる。
ふつうのにんげんになる。
苦しみ喘ぐことになる。
達観していたような気分に浸っていた、それすらも感じていないような諦観というか、無。
それらがすべてなかったことになる苦しみだ。
自己否定甚だしい。

強請って届かず仕舞いなのは人間関係も同じ。
どんな相手にも無になっていたはずの自分は、時間と共に消え去って、ないもの強請りが始まる。
結局、すべて憎い。
無で何も感じなかった自分を、広い心で相手を許し、理解する事の出来るいい奴だなんて思っていた。
それを否定されるんだから、今の状況も相まって、自分で自分をも否定してしまった苦しみは大きい。
・・・だが、輝かしい未来を強請ることはほとんどない。
どうしてだろうな。


無論、解っている
この心、この体、この顔・・・すべてにおいて
輝かしい未来を手にすることが不可能なことを
解っているから
殺したいほど慰め
生かしたいほど責め
死ぬために生きている現実、がある

ほんとうにほしいと、ぼくがおねだりしているのは・・・

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