1.このシリーズのこれまでの記事
(1) 「非監護親の『寄る辺のない孤立感』と監護親の面会交流義務の『感情労働』性」(渡辺義弘)
(2)面会交流~紛争の泥沼化,高葛藤事案の背景事情~渡辺義弘弁護士論文(2)
(3)面会交流高葛藤事案の「紛争の実質」~渡辺義弘弁護士論文(3)
(4)ネットでダウンロード可能な渡辺義弘弁護士論文のオリジナル論文~渡辺義弘弁護士論文(4)
(5)面会交流~監護親母・非監護親父・DV事案の整理図~渡辺弁護士論文(5)
(6)面会交流調停のあり方について私が願うこと~渡辺弁護士論文(6),木附千晶(1)-2
(7)面会交流~家庭裁判所の180度転換・・・比較基準説から原則的実施論へ~渡辺弁護士論文(7)
2.
前回の「面会交流~家庭裁判所の180度転換・・・比較基準説から原則的実施論へ~渡辺弁護士論文(7)」の記事で,平成20年ころから面会交流の原則的実施論が登場し,あっという間に全国の家庭裁判所に広がったという話をしました。
そして,それは,従前の運用(比較基準説,総合考慮説)が180度変わるものであったという説明をしました。
なぜ,このような変化が生じたのか,原則的実施論による運用の問題点は,これから渡辺弁護士論文を読み進めていく中で紹介していきます。
3.
原則的実施論の運用は,特に,母が監護者となっていて,しかも非監護親父にDVの問題性が強く,面会交流においても様々な問題が生じているようなケースにおいて,その問題点が現れます。
上記のようなケースでは,DV被害者の母は,原則的実施論の運用によって,家庭裁判所に,おもいっきり痛めつけられる状況に落とし込まれているように私には思われます。
そして,「子どもの福祉」を言いながら,家庭裁判所の原則的実施論の運用は,子どもを置き去りにし,子どもを傷つける面会交流の強行となっている場合も多々あるのではないかと思います。
4.
この記事では,以上を踏まえつつ,木附千晶氏の連載記事2を紹介します。
「『別れたDV夫に子どもを会わせたくない…』親権を持つママの苦しみ」・・・木村千晶氏その2
さて,この記事では,最後に,DV被害者である木村百合さん(仮名)のコトバが紹介されています。
以下です。
「私にとって面会交流は、かたちを変えたDVの継続のようです。相変わらず元夫に振り回され、『子どもとの生活を奪われないか』といつも怯えています。
面会交流の大切さは分かっています。でも、第三者機関などで支援する人たちには、子どもと会えない親の側だけでなく、同居親の気持ちも、もう少し理解して欲しいのです。同居親が安心して子どもを送り出せるようにすることこそ、面会交流実現の近道ではないでしょうか」(百合さん)
記事からは,離婚の調停で面会交流に関する取り決めがなされているようですが,その調停の経緯は記事からは不明です。
ですから,調停の最中,百合さん自身は面会交流に前向きであったのか,それとも面会交流に消極的であったのかは全く分かりません。
ですから,以下に述べることは,この記事の百合さんのケースにも当てはまるのか,当てはまらないのかは全く分かりません。
5.
家庭裁判所が採用する原則的実施論においては,一応,面会交流を禁止・制限すべき事由として,子どもへの虐待,DVが上げられています。
しかし,実際の運用面では,DVを理由として面会交流が禁止・制限されるというのは少ないように思います。むしろ,DVがあっても,それでもなお,面会交流をなんとか実施させようというのが家庭裁判所のスタンスではないかと私には感じられます。
そのような家庭裁判所のスタンスは,面会交流を求める非監護親(多くは父)の訴えに傾斜し過ぎているように私には思われます。
問題のある非監護親父への対処で監護親母がストレス一杯になり,ボロボロになり,それが日常の子への監護を動揺させ,子の福祉に反する結果を将来しかねないということについて,家庭裁判所は具体的に考えてくれず,そのストレスがどれだけ甚大であろうが,「苦役」のレベルに達していようが,監護親に,それを引き受けろと言っているように思われます。
私は, 「監護親の監護の責務」として監護親が面会交流への協力を引き受けなければならないことは否定しません。しかし,それも程度問題で,非監護親父の問題性が極めて大きく,非監護親父への対応が「苦役」レベルに達してしまうような場合は,そういう非監護親父の問題性が解消されるまで面会交流を禁止・制限すべきと考えます。
そして,家庭裁判所は,第3者機関に丸投げするよりも,まず,調停手続で,そういう非監護親が面会交流について多少なりともまともになるような様々な働きかけをして,その成果もきちんと検証し,そういう非監護親への面会交流協力を監護親に義務づけていいかを具体的に考えてほしいと思います。