今日は、講座を受講してきた。
多くの人との出逢い。
講座の演習を通じての個人個人の視点、
講師の方々のご指導。
そんな中での多くの気づき。
有意義な時間だった。

講座は、自分の将来(進路)と深く関わる事であり、気持ちが揺れ動いた。
何をいまさら、なのだが、
どうしても自身の健康問題が頭をもたげてくるのだ。
健康ぶっているけど、
極端に言えば、死というものを意識しない日は少ないし、
こうした大切な問題であるほど
将来残された時間という事に想いを馳せるのだ。
周囲の受講生のみんなは、
きっと本当に元気で、こんな問題抱えてるのは私だけだろうな…なんて
思い込みによる冷めた目線。
(もしかしたら、がん経験者だって
いたりして)
いや、がん経験者じゃなくても、
人間は死亡率100%、明日のことなど
誰にもわからない。

だけど、であるからこそ
いま、この錯覚かも知れない今日という
元気(そう)な日を
悲観も楽観もせず、生きる。
いや、不謹慎かも知れないけど、
病気なんて微塵も思い出さずに
楽しむ日があったって良いと思う。

世の中、世界中には
楽しい人ばかりではなく
つらい境遇にある人も沢山ある。
そのことを忘れている訳ではないのだ。
きっとみんな、思いやりの気持ちは
心にある。
様々な支援を実践している方には
頭が下がる。

でも、人生一度きり、
決して悔いがないように…
私自身、ちょっとしたことで
体調を崩す事もある。
特に昨年秋から冬にかけては
大丈夫か?と思う程の 
体調不良の日々。
ある朝急に、起き上がる事も出来ず
水も喉を通らず、このままお陀仏かなぁ、なんて弱気になったりもした。
ちょうど亡父の一周忌を目前に控えた次期だった。
精神力の強さは、誰もが文句無く認める父だったが、
亡くなる直前には、同じ年の秋に他界した自分の弟について想いを馳せる事も幾度かあった。
今となっては、亡くなるその前日だったのだが、その日にも
食欲の殆どない、いや、もう何ひとつ喉を通らなかった父に
母が何とか元気をつけてあげようと、
一生懸命、ほうれん草だったか、
柔らかくして、与えようとした。
そして、やはり全く食べられずにいた父が、
○○(弟の名前)が羨ましい』と呟いたのだ。
それを聞いた母は、憤慨してしまって
外に煙草を吸いに出た。

そして、その暫く後に
姉を呼んで『お母さんに謝りたいから呼んで来て』
と、言って、怒っていた母も思い直して
父の枕元に来た。
そこで母に、父は、
父なりの感謝というか
愛情というか、そうした言葉をつたえた。
今でも母は、その言葉をとても大切にしている。

そうした父の姿からも、
いろんなことを教えられたし、
その意味は今もずっと考えている。
何ヶ月かは、こうしたことを思い出しては
父の無念さに思い至り
どうしようもない気持ちを持て余してもいた。今も消化しきれてなくて
悩み探し続ける日々。
遺影の父は、にこやかに微笑みかけてくれていて
きっと、私に
『桃音ちゃん、悲しい顔で過ごさないでね、元気に楽しく、仕事頑張ってね。
お父さんはちゃんと見てるからね』って言ってくれてると思うのだ。
だから、やることはやって、
楽しい時は楽しく、
病気なんて知ったこっちゃない。
なんてあっけらかん。と過ごしたりもしているのだ。
こういうことは、個人個人の考え方、
価値観があるので
私はそんな風に思うだけ。
これでいいのだ。
私の場合は、
こうしたことから、他者に対する思いやりも育めると考えている。
まだまだ、だけど。
形としてなくなっても、こころの中に
生き続けることが出来る、
その意味も少しずつ深くなっている。
自分の未来は未知数だけど
こんなことを思いながら、
少しでも視野を広げて
自分の限界も広げられたら。

そんなことも考える、
講座の日々なのである。





がん患者さん、病気の方、家族の方皆様に安らいだ楽しい時間がありますように