[702]営業の成果とは
社長交代劇の頃ぼくは相変わらず営業に明け暮れていた。D社からのCADの仕事は
順調でぼくのFC社時代の旧友の古田さんと斉藤さんともうまくいっていた。このCADの仕事には中途採用した松野とスターティングメンバーでもある長谷部がメインで当たっており池袋のD社で働いていた。丁度その頃日本鉄鋼(24)に対して営業をかけていた。
D社のCAD製品のコンソーシアムからの紹介で日本鉄鋼の笹野(25)さんを紹介してもらい笹野さんから中村氏を紹介してもらい、その中村氏に営業をかけていたのだ。
ある日中村氏と話していると、「ハートスタッフ社に松野さんっているでしょー彼みたいな人に来てほしいんだよねー」と言った。ぼくはびっくりして「彼はD社で働いてますからね…」というと、「そうなんだよなー」と言ってしばらく考え込み、ぼくを真剣に見て「何とかなりませんか」と頼み込んできた。ぼくは困りに困ってしまった。友人であるD社の古田さんを裏切り松野を日本鉄鋼に送るわけにはいかない。とは言っても日本鉄鋼に穴を開ければビジネスチャンスが相当広がるからだ。
その後ぼくは古田さんに相談した。なんでも丁度松野のマネージャーが大阪のマネージャー佐藤さんに替わる計画があることを知った。そこでぼくは日本鉄鋼の中村氏に何とかなるかもしれないことを伝えた。これがぼくの大きな誤りだった。それを聞いた中村氏は何とハートスタッフ社のぼくがこんど松野を日本鉄鋼に送ってくれることを、わざわざD社大阪の佐藤さんに伝えてしまったのだ。それを聞いた佐藤さんはぼくに電話で強くクレームをつけてきたのだ。ぼくは事態を知りビックリしてしまった。まさかそんなことになるとは思ってもいなかったからだ。ぼくは取りあえず日本鉄鋼の中村氏に事情を説明して、もしかしたら松野の件は駄目になるかもしれないと伝えた。中村氏はぼくに謝っていたがもう遅かった。中村氏のフライングである。そしてぼくは大阪の佐藤さんに電話して翌日訪問する約束を取り付けた。
ぼくは翌日D社大阪にいた。佐藤さんに土下座の如く謝罪した。佐藤さんはこてこての大阪弁でまくしたて許してはくれそうになかった。帰りの新幹線の中でぼくは腹を決めた。もうこうなったら松野を日本鉄鋼に送り込みビジネスチャンスを広げよう。D社大阪の佐藤さんにはやるだけのことはやった。契約のイニシアチブはこっちにある。そう腹を決めると気も軽くなり新幹線の中でビールを二缶飲みぐっすり寝込んでしまった。
その後松野は日本鉄鋼に入り、そのお陰で8人程度のプロジェクトになった。D社の方は大したトラブルにも発展しないで済んだ。後日談だがぼくの大阪行きが結構向こうの心象を落ち着かせたらしい。
1992年は大変な年になった。バブルが崩壊して翌年であり、その後遺症がIT業界にもかなり深刻に響いていた。ぼくはそれまで請負契約のものを派遣契約に切り替えこの難所を切り抜けようと営業に全力を傾けた。部下からは派遣に出すということで強い抵抗にもあった。それを一人ずつ説得していった。新人3年の女性の部下には夜寿司屋で説得していたら急に泣き出されて閉口したことがあった。兎に角がむしゃらに頑張った。
ある夜品川の飲み屋で山崎部長と飲んでいた。
山崎部長がいつものようにビールを飲みながら言った。
「あなたは偉いよ、よくやっている、こんな時なのに稼働率が高いものなー」
そう言いながらつまみをぱくぱく下品に口に運んでいる。
ぼくは嬉しくも何ともなかった。それより忸怩たる思いにかられていた。
もしこの時期に自分の面子やポリシーを優先し、稼働率を下げアイドル人員を多く出したらどういうことが起きるか解っていた。まず目の前にいる山崎部長が騒ぎ出し、それこそとんでもない仕事を持ってくることは解っていた。だからここは一時避難のつもりでぼくだけの息の掛かったプロジェクトに入れておきたかったのだ。
品川の夜は更けていった。ぼくも何時しか酔っていた。
世の中うまくいかないものである。