空と色、そして風の記憶

空と色、そして風の記憶

ALSのこと最近知りました。そして58歳でALS患者の仲間入りです。
これまでの人生を感謝し、今日を精一杯に生きて行こうと思います。
生きているということは、生かされていること、そう思う今日この頃です。

■□■□■ Theme guide of Tomo's blog ■□■□■


●右の「テーマ」から入りますと、目次からご覧になれます。→ → →

 ※アルファベットのみのテーマは倉庫の様なものです。

●← ← ←左は一番上から『最新の記事』になります。

●下の「テーマ」部をクリックしますと記事一覧が表示されます。↓ ↓ ↓



日    】………………………日々の気ままな日記です。勝手なことを

                言っていますが、どうぞお立寄り下さい。

想いあふれて 】…………………趣味のアラカルト。好奇心旺盛な人生です。

                本当はもっと沢山あります。

風の記憶 】………………………ぼくの履歴書!人が読んでもつまらないですが、

                自分の為に書いています。9月完了予定。

空 色 庵 】………………………ぼくのアトリエです。今は文字のみの作品ですが

                絵や音楽も挑戦したいと思っています。

ALS ブログ 】……………………ALS発症からの記録です。事実を見つめて

                行こうと思っています。

拝啓シャーリプトラ様 】………123年前から仏教に興味を持ち始めました。

                今は般若心経を勉強しています。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

Amebaでブログを始めよう!

702]営業の成果とは


社長交代劇の頃ぼくは相変わらず営業に明け暮れていた。D社からのCADの仕事は

順調でぼくのFC社時代の旧友の古田さんと斉藤さんともうまくいっていた。このCADの仕事には中途採用した松野とスターティングメンバーでもある長谷部がメインで当たっており池袋のD社で働いていた。丁度その頃日本鉄鋼(24)に対して営業をかけていた。

D社のCAD製品のコンソーシアムからの紹介で日本鉄鋼の笹野(25)さんを紹介してもらい笹野さんから中村氏を紹介してもらい、その中村氏に営業をかけていたのだ。

ある日中村氏と話していると、「ハートスタッフ社に松野さんっているでしょー彼みたいな人に来てほしいんだよねー」と言った。ぼくはびっくりして「彼はD社で働いてますからね…」というと、「そうなんだよなー」と言ってしばらく考え込み、ぼくを真剣に見て「何とかなりませんか」と頼み込んできた。ぼくは困りに困ってしまった。友人であるD社の古田さんを裏切り松野を日本鉄鋼に送るわけにはいかない。とは言っても日本鉄鋼に穴を開ければビジネスチャンスが相当広がるからだ。

その後ぼくは古田さんに相談した。なんでも丁度松野のマネージャーが大阪のマネージャー佐藤さんに替わる計画があることを知った。そこでぼくは日本鉄鋼の中村氏に何とかなるかもしれないことを伝えた。これがぼくの大きな誤りだった。それを聞いた中村氏は何とハートスタッフ社のぼくがこんど松野を日本鉄鋼に送ってくれることを、わざわざD社大阪の佐藤さんに伝えてしまったのだ。それを聞いた佐藤さんはぼくに電話で強くクレームをつけてきたのだ。ぼくは事態を知りビックリしてしまった。まさかそんなことになるとは思ってもいなかったからだ。ぼくは取りあえず日本鉄鋼の中村氏に事情を説明して、もしかしたら松野の件は駄目になるかもしれないと伝えた。中村氏はぼくに謝っていたがもう遅かった。中村氏のフライングである。そしてぼくは大阪の佐藤さんに電話して翌日訪問する約束を取り付けた。

ぼくは翌日D社大阪にいた。佐藤さんに土下座の如く謝罪した。佐藤さんはこてこての大阪弁でまくしたて許してはくれそうになかった。帰りの新幹線の中でぼくは腹を決めた。もうこうなったら松野を日本鉄鋼に送り込みビジネスチャンスを広げよう。D社大阪の佐藤さんにはやるだけのことはやった。契約のイニシアチブはこっちにある。そう腹を決めると気も軽くなり新幹線の中でビールを二缶飲みぐっすり寝込んでしまった。

その後松野は日本鉄鋼に入り、そのお陰で8人程度のプロジェクトになった。D社の方は大したトラブルにも発展しないで済んだ。後日談だがぼくの大阪行きが結構向こうの心象を落ち着かせたらしい。



1992年は大変な年になった。バブルが崩壊して翌年であり、その後遺症がIT業界にもかなり深刻に響いていた。ぼくはそれまで請負契約のものを派遣契約に切り替えこの難所を切り抜けようと営業に全力を傾けた。部下からは派遣に出すということで強い抵抗にもあった。それを一人ずつ説得していった。新人3年の女性の部下には夜寿司屋で説得していたら急に泣き出されて閉口したことがあった。兎に角がむしゃらに頑張った。

ある夜品川の飲み屋で山崎部長と飲んでいた。

山崎部長がいつものようにビールを飲みながら言った。

「あなたは偉いよ、よくやっている、こんな時なのに稼働率が高いものなー」

そう言いながらつまみをぱくぱく下品に口に運んでいる。

ぼくは嬉しくも何ともなかった。それより忸怩たる思いにかられていた。

もしこの時期に自分の面子やポリシーを優先し、稼働率を下げアイドル人員を多く出したらどういうことが起きるか解っていた。まず目の前にいる山崎部長が騒ぎ出し、それこそとんでもない仕事を持ってくることは解っていた。だからここは一時避難のつもりでぼくだけの息の掛かったプロジェクトに入れておきたかったのだ。

品川の夜は更けていった。ぼくも何時しか酔っていた。

世の中うまくいかないものである。



今日ラジオ聞いていたら、諏訪のほうの医者で鎌田~という人がいっていた。

自分は子供たちになにかあったときは、人工呼吸器といろうだけは付けるなと、それが自分の哲学だとか・・・

うーん、かっこいいなー。だけどちょっと待てよ!これ放送でしよ!

じゃー呼吸器やいろう付けている人はどう感じる?

やっぱ、付けて失敗したかなー

ところで、まだ入院しています。

いろうからの栄養剤が合わないのか、10分おきに便意があり、続いています。正直つらい!

とんでもない番狂わせだ。


明日からまた入院、飲み込みが悪いので早くいろう流入に切り替えるためにいろう交換と、流入研修を早めるらしい。

10日ほど家をあける。


昨日は孫のトンちゃんが来た

ぼくが妻からアイスクリームを食べさせてもらっているのを見て自分でやると言い出した

真剣な目、丸い目、どうしてこんなに可愛いのか・・・

それにしても我が身の不甲斐なさ・・・


    おいしさの 中に悲しみ 溶け合って

    孫のひとさじ 幸せアイス

贈りもの
先週Sさんから贈りものが届いた。
妻が開梱して僕に見せてくれたとたん、思わず声が出てしまった。
「わーっ!」包みから出てきたものはなんとA2ほどの額に入った写真だった。
紺碧の空、緑の山に覆いかぶさるように湧き出た純白の雲、
そして手前の小高い丘の上には石仏がことのほか高くそびえて見える。
Sさんは信州の山や風景を専門に撮り続けているカメラマンだ。
一年を通して殆ど信州を彷徨っている。そうして作品がたまると東京で個展を開いたりしている。
妻が差し出しているその写真を暫し眺めていたら何故だか涙が溢れてきた。
Sさんと出会ってからもう何年の時が流れたのだろうか・・・
35~6年か?二人ともまだ20代だった。二人でよく富山にある企業に出張に出かけたものだ。
その後の僕たちはいくつかの会社を経て一人立ちした。
僕はどうしても実生活から逃れられず仕事を選んだが、彼は今までのビジネスをキッパリ諦め一人で信州に籠った。
最近では写真集を出版し、自己実現の道を謙虚に彼らしく直向に歩んでいる。
僕はそういう彼をリスペクトしている。そして、応援しているのだ。
「俺のぶんまでやってくれ!」と・・・

701]株主総会


白河社長という人は、兎に角形式というものを重んじる人で、いくら会社が小さくとも、また同族会社であろうと株主総会をきっちりやった。社員も白河社長から何株かを分けてもらった者がおり、その者達も混じり株主総会が行われた。新社長誕生の時の株主総会の様子は忘れてしまったが、何でも明智社長の初心挨拶は次のようだったことを覚えている。「長いことサラリーマン生活をやってきて、これ程名誉なことはない、全身全霊をかけてハートスタッフ社の為に邁進する……」というような内容だったかと思う。

そして当日の夜、白河会長(白河社長は会長職に就任した)主催による、明智社長就任祝いが渋谷の料理屋で幹部も出席して行われた。

白河会長から明智社長に贈り物があった。文庫本数冊が新社長に渡され会長から説明があった。忘れてしまったが《三国志》であったことは覚えている。

19925月。ハートスタッフ社にとってエポックともいうことが起きたのだ。ただ幹部の殆どの者はこれから会社が大きく変わっていくことは想像できなかった。何故ならばいくら社長交代があっても、オーナーとしてそし会長として君臨しているのは依然として白河会長だったからである。これはある意味当たっており、またある意味ではまったく外れてしまったことが明智社長の不運でもあった。ぼくはこういう2トップの直下で振り回されることになるのだった。

[700] 激動編によせて

1992(平成7)株主総会で正式に明智専務は代表取締役社長にそして白河社長は会長に就任した。ぼくは部長になっていたが相変わらず部下の管理と山崎部長と一緒に営業活動にあけくれていた。その中でも製鉄会社との取引に懸命になっていた。ただ悲しいことに上杉本部長が退職することになった。社長交代後一年もするとすっかり明智社長は意気揚々としていた。その頃ぼくは大事件に巻き込まれてしまった。一年前から始まったFOPE社(23)の運用監視システムプロジェクトの進捗状況が悪く、その頃そのプロジェクトは明智社長直轄プロジェクトになっており、その責任がぼくに回されてしまったのだ。この炎上プロジェクトの火消しを行いやっと落ち着いたと思うとまた問題が起きるというように次から次へと起きる問題に対応する毎日だった。

そして何故だかその年の株主総会でぼくは取締役に就任した。この時ばかりは妻は喜ぶより体を心配したものだった。

そんな忙しいさなかぼくの体に異変が起きた。ハートスタッフ社入社当時偶然発見された胆石が痛み出したのだ。ぼくは意を決っして手術を受けることにした。入院生活が休養になった。退院するとまた忙しい日々が訪れた。明智社長は大胆な組織変更をおこなった。それに伴い大手外資系IT企業から営業を引き抜いたのだ。これが吉と出てそれ以降ハートスタッフ社は大きく業績を上げることに成功するのだった。一方では会社としてターニングポイントともいうべき事が起きた。白河会長が会社の株の51%をアメリカの企業に売り実質ハートスタッフ社はそのアメリカの企業の配下に入ることになったのだ。天変地異、僕たち幹部はただそれらの大きな流れに飲み込まれざるを得なかった。会社は大きな濁流にもまれるが、新しく入った営業は自分の前職のパイプを活かしてITビジネスを拡大していった。それに伴い技術者をどんどん採用し外部の下請け業者も使うようになる。それらは全てぼくの配下になり責任になるのだ。ぼくの事業部は3年の間にそれまでぼくが一人でやっている頃に比べると五倍程の売上が上がるようになった。

しかし明智社長は更に成長を求めた。そしてそのIT企業からSE部門のマネージャーを引き抜きぼくを更迭し、その後釜に据えたのだ。ぼくは前年に開設した大阪支店に単身赴任することになった。ぼくが大阪で過ごしている間、東京本社が大変なことになったのだ。それまで静かにしていた白河会長が動き出した。赴任1年後にぼくは白河会長に東京本社に引き戻された。ぼくが東京本社に帰ると明智社長の構想で始まった拡大戦略は暗礁に乗り上げ、ITの事業部は炎に包まれていたのだ。

そして帰ってからの1年間、ぼくは立て直しに専念することになった。

その後何があったのか白河会長と明智社長の確執がはじまり、ついに明智社長は辞任する。

ここまでの7年間をこの「激動編」で回想することにしようと思う。まさに激動の7年間だった。この間ぼくは自分の限界も感じたし、世の中を泳ぎまわる術が無いことも自分なりに解ったつもりだった。ただいくら学歴やキャリアがあっても人間としての魅力に欠け、部下のことを考えないリーダーは一過性の使い捨てになるリスクも併せ持っていることも解った。どこの世界でどう生きていくのかは終極的には自分の選択と又は宿命的なものに対する諦めの極致に定められている。

この「激動編」の終わりの頃、ぼくも45歳を過ぎている。長男が高1、長女が中2、次男が小3。その頃を記憶を遡りながら記憶の旅をしたい。


退院したよー
さあ、今日からまた別の生活が始まるのかー(^o^)!

バイパップ呼吸器試したけど・・・
今日午前中にお試しを行った。
率直に言ってこれで大丈夫かな?ってな感じ。
唾を飲み込もうとすると、タイミングがあわなくて逆流して苦しい。
これ慣れるまで時間かかりそう~(^o^)
後は本番を待つだけか・・・
なーんか出発を待つ特攻隊員みたいな感じ(-_-#)
20日はいよいよ退院です。


一年もの長きにわたり続いた治験も、今日の午前の点滴で終わりました。感激です。!もう止めたいと思ったことも度々ありました。その度ごとに、我慢、我慢、これは俺の最後の仕事なんだと自分に言い聞かせてきました。

少しは世の中の為になったかしらん。

さて、また明日から別の世界です。頑張らなくっちゃー!(^o^)