みなさま、おはようございます^^


覚醒してしまうと生きるという事に対してどう感じるのか?という事なのですが、私の感じている事をお伝えしますね。



本音を言えば、どうでもよくなってしまうように思います。

そこにそれまでの情熱と感じていたものはなくなります。

ポイントは「それまでの情熱」です。



海で言えばベタ凪で、全く波のたたない状態が心の状態のようになっていく為、ず~っと平和です。





過去に苦しんでもがいていた経験をとても素晴らしい状態だったな~と思う事がありますし、本気で入り込んで自分と戦っていた頃が懐かしいと感じたりもします。


そうした苦しみから抜け出したくて幸せになりたくて、多くの方がそこを目指しているのかもしれませんね。




人間はね、目指す何かがある、その過程がとても楽しい生き物なのだとも感じます。



ただ、この目指す何かが消えて幸せを感じる状態が続き、なんだか刺激のない生活が続いているようで、でもそこからみえる世界があると感じています。




その位置から情熱を自ら起こして何かを行っている人たちが世の中には沢山いらっしゃいますね。



何も起こさなくても良い、何かを起こしても良い。

ずっと空(くう)の状態にあっても良し、人間的な感情に浸りきってもいいですし。

色々と楽しむ事ができるように感じます。





悟りというのをゴールとして設定しても、実はそこには何もないのです。

以前悟った人間なんてこの地球に一人もいない と気づく事が悟りだと言いましたね。


これは経験した後に振り返ると、最終的に死んでからしかわからない粒子の世界がそこに存在していると私の場合は感じました。

(体験中は考える事ができませんから、後から様々感じたという事です)


ですから、私の感じる「人間の悟り」というのは実際はゴールではなくスタートでしかないのだな、と思ったのです。


知った上で本当の人間として生きていく、というような感覚ですね。


(この以前の記事は今年の6月ですが、この3ヶ月でまたもや怒涛の変化をしていますので、今感じる内側の感覚はこの時と少し変わっています。)



そしてその粒子の状態を鮮明に覚えているのは幼い子供たちだと感じています。

生まれ出る前までは宇宙の粒子だったわけですから。


ですから子供に還るのが悟りの状態と言われるのですね。




視点が高くなるというのは高次元領域に入っていく事ですが、視点がどんどん高まると起きる事は「人間的な感情を超えたその先に位置する感覚」というように感じています。


最近ずっと視点がかなり高い状態になっていたのですが、その時の感覚はこの地球での私の一生は歴史的に感じれば「瞬き一つのようなものだ」という感覚でした。



その地球の壮大な営みの中の粒子の集合体でしかない自分を客観的にみていくと、自分の粒子(細胞)の周波数を整えればそれで人生はいいわけで、それが結局は人類共通の役割よね。というような人間的に言えば冷めたように感じるであろう目線で自分や自分の人生をみています。



高次元化する視点というのは人間の感情を超えた先の所にあるのです。




これが大覚醒すると大変だ、と一部で言われる事なのかもしれませんね。

それがわかった上で覚醒者は壮大な人生を自ら感情を起こしながら楽しんでいくのでしょう。


ですから覚醒者と呼ばれる人たちが覚醒後にとる行動は歓びを自分の内から沸き上がらせて生きていく事だと感じます。


それは自ら沸き上がらせますが、しかし自然と笑いが出てしまうような感覚にも感じます。


そして結局は他者や地球のサポートをする、という視点になっていくのだと感じています。




こうした説明がいいのかどうかわかりませんが、このブログは少し教科書(参考書)的な書き方なのですね。


それがこのブログの役割なのでそうしていますが、実際はブログを書いている時と仕事モードの時以外は私はこんな事を考えている時間は一秒もないですし、このような話を普段する事は皆無です

はっきり言えば、家族や友人たちとたいした話はしていません(笑)

どーでもいい会話しかしていないのですね。


そして人生に対して深刻にもなれないような感覚です。

それが私にとって「生きている」という状態です。





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