某国務大臣が献金を受けたかどうかで、(また)国会が紛糾しています。まぁ、民主主義を標榜する以上、国会が紛糾するのは、当然に織り込まれているといえるのであって、そこをごちゃごちゃと言うのは、国家システムを見誤っているでしょう。重要なのは、汚職の典型である贈収賄というものをどう考えるかです。
蛇足ですが、日本はそもそも汚職というのが外国に比べかなり少ないと言われています。日本の政治・行政・司法の誇れるところかもしれません(仮に検察官や裁判官が関係者から金銭等を受け取ったとなれば、それこそ大問題になるでしょう。しかし、外国にはそれが当たり前だと思われているところもあるのです。そして、これは法治かどうかの問題では必ずしもなく(日本でも採用されている、検察官が裁量によって起訴するかどうかを最終的に決する起訴便宜主義を考えればわかります)、正義に対する意識の違いであり、日本人はその意味で潔癖だといえましょう)。

さて、賄賂[ワイロ]罪とはどのような犯罪であり、なぜ処罰の対象(=犯罪)とされているのでしょうか。このことをちゃんと理解している人は、実は多くはないのではないかと疑われます。そこで、本稿では、賄賂罪の処罰意義を中心に、「賄賂」性についてお話をしようと思います。

賄賂罪とは、いくつかの種類の犯罪をまとめた表現です。具体的には、刑法197条1項の単純収賄罪、同条2項の受託収賄罪・事前収賄罪、197条の2の第三者供賄罪、197条の3第1項の収賄後枉法罪(枉法[オウホウ]とは、法を曲げるという意味です)、同2項の枉法後収賄罪、同3項の事後収賄罪、さらには197条の4のあっせん収賄罪、そして、これらの必要的共犯(対抗犯)として刑法198条で贈賄罪が規定されています。賄賂罪は、公務員職権濫用罪と並んで、刑法第2編罪第25章汚職の罪にまとめられています。
なぜ、賄賂罪は処罰の対象となるのでしょうか。判例は、「賄賂罪は、公務員の職務の公正とこれに対する社会一般の信頼を保護法益とする」と明言しています(平成7年2月22日最高裁大法廷判決)。つまり、本来法の公正な執行が目指されるべき公務が、本来の給与以外の対価によって曲げられることを避け、また、国民にそのような「不公正な法の執行がなされたのではないか」という疑いを向けられるのを避ける(それはひいては公務の公正を公務員と市民の両面から確保する)ためだということができます。このため、「賄賂」とされるものは、公務員の職務行為に対する対価としての不正な報酬であり、財物のみに限らず、また有形・無形を問わずに、人の需要または欲望を満たすことができる一切の利益だと考えられています(明治44年5月19日大審院判決参照)。そのため、就職あっせんの約束(大正14年6月5日大審院判決)や異性間の情交(昭和36年1月13日最高裁判決)なども賄賂とされています。
このため、社交儀礼(例えばお歳暮など)も賄賂に当たる可能性があり、そこに特定の職務執行との対価性が認められれば、たとえお歳暮などであっても、賄賂性が肯定されます。

ところで、提供された具体的利益が賄賂といえるためには、それが「職務に関し」提供されたことも必要です。ここでいう「職務とは、当該公務員の一般的な職務権限に関するものであれば足り、本人が具体的に担当している事務であることを要しない」(昭和37年5月29日最高裁判決)とされているため、例えば内閣総理大臣であっても、起訴をさせないように検察官に働きかけるような要請を受けても、それは閣僚の一員である法務大臣に働きかけられる以上、ここでいう職務関連性は否定されないことになります(ロッキード事件とは、まさにそのような事件でした)。

最後に、上記のニュースに関連して、2点ほど。
1点は、公務員本人が直接受け取るかどうかは、収賄罪に当たるかどうかの基準にはならないということです。例えば、当該公務員の配偶者が受け取っても、それが当該公務員が実質的に受け取ったと見れるため、収賄罪となります。これに関連して、収賄の脱法を避けるために、例えば、事件をもみ消してもらうために警察署長に警察の自動車の改造費用の負担を申し込んだような場合には、刑法197条の2の第三者供賄罪になります(昭和31年7月3日最高裁判決)。この場合、その第三者は、それが賄賂であることを知っている必要はありません。
2点目に、既遂時期についてですが、収賄の既遂時期は、あくまで賄賂を受け取ったときであり、たとえその後収賄が発覚し、返還したとしても、それによって犯罪性が否定されるわけではありません。なお、賄賂罪は、申込み/要求・約束・収受のそれぞれを処罰の対象にしており、時間的な処罰可能性は相当前倒しされています。

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