大きな災害が起きたとき、その直接の被害者や関係者でなくとも、その直接の被害者や関係者が沈痛な状況にあるということを理由に、例えばお祭りやその他のエンターテインメントが「自粛」の名において否定的に見られ、反対にその災害地の物産などの購入によって「応援」をしようという雰囲気が作られがちです。今回はこの前者に当たる現象の理由になっている「不謹慎」という発想にフォーカスしようと思います。

 

不謹慎とは、「慎みのないこと」とか、「不真面目なこと」と定義されます(明鏡国語辞典MX版第2版参照)。そうすると、ここから考えなければならないのは、なぜ慎まなければならないのか、そして、誰のために慎まなければならないのか、です。

教育評論家でもある尾木直樹法政大学教授は、被災者の窮状を「さておいて 普段通りの楽しい番組構成に ブレーキかかるの あまりにも当然! 人間らしい共感能力 あれば 自粛して工夫しょうとするのは あまりにも当然! 人として豊かな心遣いではないでしょうか!? 想像力 共感能力の 問題ですね 社会力、社会性の問題ではないでしょうか!?」と論じられました(同「番組自粛はごく自然な人間らしい判断」)。しかし、これを見ればわかるとおり、「共感能力」しか理由がなく、それ以上は「当然」の一言で片づけられています。

法律家にとっては、評価や判断基準に対して「当然」というのは、ほぼ禁句です。なぜなら、反論を許さない、一方的なものになりがちだからです。つまり、上記の尾木教授の論は、「人間であれば共感力なければならない」という命題だけしかないのです。しかし、その命題の一般的妥当性は肯定できるとしても、その適用領域などの限定は(文面上)一切考慮されておらず、不適切な適用もあり得るのだと思います。例えば、「人として当然」なのであれば、遠く離れたアフリカの人々に「慎み」を求めることにもなり得ます。それは「当然」なのでしょうか。「社会」という限定をどこにかけるのかさえ、議論があり得るのに、それを「当然」で片づけてしまうのは、あまりにも粗雑な議論だといえましょう。

 

災害に関わる慎みの理由は、おそらく、尾木教授の指摘する通り、他者に対する共感が理由になっているものと考えられます。そうすると、慎みは「被災者のため」です。これもまた尾木教授の指摘通りです。そうすると尾木教授の論の問題は、この「被災者」の心情を、大まかに一括りにし、そして一方的にこう考えているだろうという予測を(裏付けが不十分なまま)行い、そこから短絡的に回答を導き出したところにあります(これと同じことは、殺人などでの「被害者の感情」や「遺族感情」を赤の他人が言及することにも当てはまります)。そこが「社会」である以上、複数の人たちがいます。彼らの多数が本当にそれ(尾木教授の議論の対象としては、(被災地にも、それ以外にも放映される)バラエティー番組の放映)を止めることを望んでいるのか、です。もし、それが望まぬものであれば、その望まぬものを強要することがむしろ「慎みのないもの」ということもできます。なぜなら、災害に際する慎みの根底に「被災者への共感」があるのならば、その個別具体的な被災者の声を聴くことこそが重要なのであり、そこから勝手な推測をすべきではないからです。尾木教授は被災者の窮状に触れてはいますが、そこから被災者の気持ちを憶測をしてしまったところに誤謬があります。本来はそこまで「確かめ」なければならない(もちろん「やめてほしいですか?」とインタビューせよというものではありません)。

心に寄り添う方法はひとつではありません。それを、十分な検討なく、1つのものに絞り込むことが、むしろ一種のプリンシパル・エージェント問題(本人・代理人問題)として立ち現れてくることもあるのです。

 

保育園の園児を散歩させていたら「不謹慎だ」というような投書があり、保育園が散歩をやめたというようなこともあったようです。上記のことを考えれば、どう考えても震災と園児の散歩には関係がないと思われます。

このように、震災などの災害は、それを機に「キャンペーン」に使われることが少なくありません。我々は、まだ、あの東日本大震災や阪神淡路大震災などから「成長」していないのではないかと疑われて仕方ありません。

 


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