自分が批判されたときなどに「たかが……(のくせして)」ということを何の躊躇もなく口にする人がいます。この言葉の正確な定義は難しいのですが、「たか」が「高」と書かれることからして、「どんなに良く見積もっても」というふうに言い換えることはできるかもしれません。つまり、評価者が評価対象を低く見積もっている(評価している)ことを示す言葉だと言えるでしょう。

 

私は、「評価」というのは、非常に難しい心的活動だと考えています。もちろん、それは心理学的な意味でもそうですが、社会的意味においてもです。殊、何かあればすぐに「上から目線」などと(その用法に従えばやはり同様に「上から目線」的に)批判される昨今(著名な小説家である綾辻行人氏がツイッターで、「『立派』がいつから『上から目線の』言葉になったのでしょうね。」と呟かれた(2016年8月13日)ことにも、この「上から目線」恐怖症(過敏症)とでもいうものがあることがよくわかります)、発話者あるいは受け手の語い力によって、その意味するところが捻じ曲げられることも少なくありません。

「たかが……(のくせして)」という言葉には、「大したものでもない」というニュアンスが付きまといます(上記の「どんなに良く見積もっても」という言い換えは、さらに「せいぜい」と言い換えることをも可能にします)。この言葉の裏には、そのニュアンスから、「偉そうにしている」とか、あるいは「大きく見せようとしている」などという評価を匂わせます。これも、自分の社会的地位・名誉が貶められた時に、その対処として、批判者側の地位を下げることで対等性を維持しようとするものだと考えられます(同様の効果を持つものとして、「冗談だ」とか「悪ふざけに過ぎない」などがあります。拙稿「『冗談』・『悪ふざけ』という弁解の持つ意味」参照)。

 

謙虚であることが日本で美徳とされたのはもはや過去のことになりつつあるのかもしれません。それを「欧米型の自己主張社会に移行している」というふうに評価するのは拙速です。なぜなら、「自己主張社会」であれ、相手の言い分にしっかりと耳を傾けることが前提とされており、それを無視あるいは見下すことを良しとはされていないからです。言い換えれば、(過去に)美徳とされた謙虚さも、「欧米型の自己主張社会」も、相手の言い分に敬意をもって向き合うという点では同じなのです。違いはその先でなお言葉を続けるかという点にしかありません。したがって、現在のように、他者の言い分に敬意を払わずになされる「自己主張」は、どのような立場であれ、幼稚・稚拙なものと考えられ、またその行き過ぎは時に反社会的なものとして認識されることになります。

こう考えると、「たかが……(のくせして)」という言葉は、(前掲拙稿で示したように)「冗談だ」とか「悪ふざけに過ぎない」という言葉同様に、むしろその人の幼稚さ・稚拙さを強化してしまう効果を持つことになります。もともと、「たかが……、されど……」とワンセットであったこの言葉は、自分が低く見積もったものの真価を侮ってはいけないという戒めの言葉でもあったはずです。それを前者だけ取り出してしまえば、この言葉の真価は歪められるのは必至です。自らの目に見えるものだけが、仮に自分が賛同する価値であったとしても、その価値の全てを体現しているとは限りません。その背後にあるものも多くある。

全体評価、展望的評価は不確定な要素も多く難しく、部分評価、近視眼的評価に流れやすいということは、ある意味においてやむを得ません。言い換えれば、それを自覚して、全体評価、展望的評価をしようとするところに理性が働くのです。これを放棄してしまえば、理性の欠如、すなわち幼稚だけになり、「独立した人格を持つ人間である」と言えなくなります。そうなると、社会のパターナルな介入を広く許す結果になります。それは、エリート主義を許し、人々への生活に強い介入を認めることになります。果たしてそれがいいのか(もっとも「お上に任せる」日本人のメンタリティには適しているのかもしれません。しかし、それは民主主義の否定であるし、幼稚であることを認める哀しさがあります)。

 

私もそうですが、自らの発する言葉がどのようなメンタリティに基づいて発せられたのかは顧みる必要がありそうです。


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