悪意を向けてきたものに対抗することを愚劣だという見方が相当あるように思います。そのときに「同じ土俵に降りてはならない」と言うのです。

その言葉だけを見るとさも高尚そうなことをいっているようですが、その理屈をよくよく考えてみると、必ずしも相当なものではないようにも思えてきます。

 

法律学の場面を思い浮かべると、例えば刑法や民法では「正当防衛」という概念があります(刑法36条、民法720条1項)。これは、(緊急状況という例外的場面ですが)侵害行為をしてきた人に(つまり侵害が実現していない段階でも)、実力をもって対抗を許す規定です。しかも、人によっては、(緊急状況という制限を持ちながらも)これを「権利」だと理解しています。

もし、対抗行為一般を愚劣なものだと考えると、このような正当防衛も愚劣なものだとみることになります。それは、ときには、「座して死を待て」ということを意味します。もちろん、そういう生き方をしたい人はそうすればいいのですが、生命、身体、自由、名誉、財産のような基本的権利を放棄しろなどというようなことを一般化することはできません(刑法223条参照)。

対して、完全な心情(つまり不快感を得ない利益のようなもの)は、例えば民法710条が捕捉する慰謝料の対象となるようなものを除いて、必ずしも法的利益として保護されるものではありません(例えば、昭和63年6月1日最高裁大法廷判決は、「人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となる」とし、「静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない」と判示しました)

 

確かに、悪意を向けるということは非難されるべきことです。しかし、それを理由に侵害を排除することを否定してはならないように思われます(刑法の世界においては、攻撃意思は防衛の意思を排除するものではないとし、同一人内での両立を認めています(昭和50年11月28日最高裁判決)。しかし、侵害を予期し、その機会を利用して相手に積極的に加害行為をしようとする意思がある場合には、そもそも緊急状態にないとして正当防衛が否定されています(昭和52年7月21日最高裁決定))。もちろん、例えば公権力の利用が優先する場合も考えられますが(しかし、正当防衛状況の場合には、公権力の利用が要求されることはありません。これは「正は不正に譲歩する必要はない」という標語でもって表現されています)、そこまで要求されない場合には直接の対抗しか方法がないということもあります。特に他者の言論による場合には、対抗言論が可能であるが故にその制限は許されないという考え方(対抗言論の法理)が強く、むしろ公権力の介入を限定するという発想があり得ます。

 

いずれにせよ、この手の対抗行為の問題は、当該の対抗行為が侵害行為・加害行為の排除に相当であったかという相当性の問題に行き着きます。そして、それは基本的には比例原則に則ったものとなり、「侵害排除に必要最小限の手段であったか」否かのみが問われることになるものと考えられます。加えて、自救行為・自力救済が禁じられ、その意味で「私刑」が禁じられている現在、このような対抗行為は「いつでも」許されるというものではなく、「緊急状況」である必要があります。したがって、緊急状況下で相当な手段を用いてなされた対抗行為は否定されるべきではないのです。

よって、冒頭の「同じ土俵に降りるべきでない(から対抗するな)」というのは、生命・身体・自由・名誉・財産などの基本的権利が侵害され、あるいは侵害される切迫性があるときにまで持ち出すのは、不当だというべきです。

 


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