電車の中で、都内の普通電車では例えば7人掛けを想定して座席が作られており、それに合わせて座席に小さな凹凸が作ってあります。しかし、中年くらいの男性などが朝夕の通勤時間に座席に座ると、往々にしてその「区画」をはみ出しており、その間に挟まれている小柄な女性などが縮こまっていることもあります。この時、見方は大きく分けて2つあります。1つは座席の区画が現代人の体格に合致していないという見方であり、もう1つは与えられた区画を超えている以上弁えがないという見方です(後者の見方は、この区画が例えば金属板によって区切られている場合にはおそらく座れないのに、それがない(つまり目に見えない境界線しかない)場合には、それを越えるというのは、厚かましいというような見方をすれば、十分に首肯し得ます)。

 

「身の程を知る」という言葉がありますが、この言葉でいう「身」とは、物理的な体格ではなく、身分や地位、能力などの社会的側面などを主意にしています。したがって、上記の電車の例で当該の人に「身の程」を語ることは、語の意味としては、誤りです。ですが、身の程という言葉が社会的側面を見たものである以上、それは客観的評価であるということもでき、体格という物的なものは客観的評価に当然含まれてきます。「起きて半畳寝て一畳」という言葉もあるように、人間にとって必要十分な量というのは客観的に存在しています。これを超え(ようとす)るのは、あくまで人の欲に過ぎません(なお、「健康で文化的な最低限度の生活」が「起きて半畳寝て一畳」であるという趣旨ではありません)。

この「身の程」を越え始めたとき、「厚かましさ」や「図々しさ」が出て来ます。例えばテーマパークのアトラクションで「体重○kgを超える人はご遠慮ください」とか、「身長○cm以下の人はご遠慮ください」と書いてあるにもかかわらず、それでも乗せろと言えば、クレーマー扱いされることでしょう。アトラクションの例は乗客の危険に対処するものであり、性質が違うという反論もあり得ますが、電車の座席についても合理性の結果であり、その不合理性を指摘するならともかく、それを抜きになされる主張はクレーマー扱いされてしかるべきだということになります。

刑法理論には「危険の引受け」という発想があります(これはいずれ別稿にしましょう)が、これは引き受けた範囲で起きた損害は他者に転嫁できないという発想です(業界では「自己答責性原理」とも呼ばれます)。アトラクション事例では、実は、「乗せろ」といった者は事故で発生した危険のすべてを引き受けられないのです。後片付けなどを考えるとどうしてもテーマパーク側が対処しなければならない部分が出て来ます。しかもそれは無視し得るほど些細なものではないというところが重要です。

 

欲は時に必要です。能力の発展や地位の向上は欲に基礎づけられていることもあるからです。ですが、その場合には、まさに自己の努力を要求します。その中で他人に多少の迷惑がかかることはやむを得ません。それなく、自分が変わろうとせずに、他者に不快感を与えるのみならず、客観的に用意された「枠」を逸脱するとなれば、そこには正当な理由がない限り非難・制約されることになります。「私の自由だ」が許されない範囲がある、否、枠組みがあるからこそその中で行使できるものが「自由」なのです。もし、それでも枠を超えた自由を主張したいのなら、枠組みの不合理さを主張するしかありません(拙稿「自由と効率」参照)。そうすると、自由を主張する相手方と、枠組みを主張すべき相手方が分離することがある(上記の電車の例でいえば、自由は他の乗客には言えても、座席幅の問題は鉄道会社にしか主張し得ません。拙稿「三面関係」参照)ということを良く理解しておく必要があります。

 


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