(1)からお読みください。

 

侵害犯における既遂では構成要件の充足が比較的明瞭ですが、それが、未遂、予備、陰謀・計画に至るに従い不明瞭になっていきます。既遂犯が危険犯である場合にはなおさらです。したがって、どの段階で当罰性を肯定するかはある種の政治判断であり、「この段階で食い止めるべきだ」という価値判断が働いていることを示しています。

他方で、刑法は、「犯罪者のマグナ・カルタ(権利章典)」と言われることもあるとおり、「法律に書いていないことでは処罰されない(≒自由)のであり、処罰されるにしても法律に書いてある範囲で処罰されるだけだ」ということを第一次的な使命にしています(これが罪刑法定主義です)。したがって、犯罪成立(≠既遂)をどの段階で肯定するかというのは、ある意味において市民が「自由」を対価にしているのです。標語的にいえば、我々は自由を代価にして秩序や安全を買っているのです。秩序や安全を追求すれば自由は減っていく。自由を追求すれば安全を犠牲にしなければならないという面がどうしても生じます(橋下徹「共謀罪の議論がかみ合わない理由」参照)。

これまでは、啓蒙思想に支えられた、自由の優位性が語られてきたのです。なぜなら、歴史的意義における自由とは、「公権力」や「社会の見えざる圧力」を否定する力を有するからです。それによって「個人の生の選択」を拡げようとしたわけです。刑法の世界においていえば、「多少の危険は分かち合って、自由を保障することで、個人の生を謳歌させよう」と。しかし、犯罪成立が早期化されれば、「これをすれば犯罪になるかもしれない」という危険感で行動が委縮します。よく「普通の人は『犯罪』なんかしない」と言いますが、普通の人は法文を熟知しているわけではありません。そして法文を熟知していないくとも犯罪該当性があれば犯罪になり得る(「法の不知はこれを許さず」です。刑法38条3項)以上、注意深い人ほど、「かもしれない」と萎縮することになります。

 

また、早期化されればされるほど、既遂結果惹起の危険があったかどうかを客観的証拠のみならず、主観的証拠、つまり自白に頼ることにならざるを得ません。なぜなら「冗談でした」という言い訳を捜査機関は封じなければならないからです。実際、未遂犯においても、実行行為が行われていない段階では、行為者の主観も考慮せよというのが通説であり、通常はこれは自白に拠っています。

この意味でも犯罪成立を早期化するのは、「自由を犠牲に安全・秩序を買っている」と言えるでしょう。しかし、保護法益が重大なもの(典型は殺人のように個人の生命や、内乱のように日本の憲法統治秩序)である場合には、「取り返しがつかない」が故に、早期化されるのもやむを得ない面があるのです。

(了)

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