「個性」について悩む人も少なくないと思います。とりわけ、中高生などで「制服」に囲まれた生活をしていたりするとなおさらかもしれません。今回は、法学の世界の考え方を利用して「個性」について考えてみたいと思います。もっとも、それは、教科書的な「人権」などというお題目に安易には頼らずに、です。

 

そもそも「個性」とは何か。もしこれを「アイデンティティ」と言い換えることが出来るのならば、それは「自分が自分であること」という「自己同一性」と呼ばれるものでしょう。そうすると、「自分が自分であること」=「『他者』とは異なる『独立した』存在であること」ということが何なのかを問うことになるでしょう。

 

単純に考えて、「他者とは異なる」ことが必要であるのなら、まず「他者と同じ」という場面を想定することが役立つでしょう。「他者と同じ」ならそこには「個性」は出ないからです。「他者と同じ」となる場面というのは、例えば「そうしなければならない」という場面です。つまり、それが「ルール」化されている場合や、そうすることが「合理的」である場合です。前者は一定の行動が命じられ、あるいは禁じられることで、それ以外の行動をすること(命令の場合)やその行動をすること(禁止の場合)の「選択肢」が失われるからです(実はここでは若干の「トリック」が働いていますが気づけるでしょうか。「トリック」については後述します)。そして後者についても、特に合理性を突き詰める場合には、ある一定の行動を取ることが「唯一」合理的である場合、他の「選択肢」が失われることになります。

 

お気づきのとおり、「選択肢」があることが「個性」のためには必要条件になります。それは、「その(いくつかの)選択肢のうち、どれを選ぶか」にこそ、意思や価値観が反映されるからです。つまり、個性とはまさしく「意思」や「価値観」に存在しているのだということになります。言い換えれば「自己決定」と「自由」があることが「個性」には必須なのです(拙稿「自由と効率」参照)。

そうすると、上で「トリック」と称した部分も分かることでしょう。「禁じる」はもちろんのこと、「命じる」場合ですら「選択肢」はあり得るからです(例えば、「A/B/Cのいずれかをすること『命じる』」という場合を考えれば、DやEを選べずとも、「選択肢」は存在しています。もっとも、これは「A/B/Cのいずれか以外をすること『禁じる』」とも記述できますが)。行政法学では「裁量」という言葉がありますが、「裁量」は「何をしてもいい」というものではありません。「合理的裁量」であることが必要であり、いわば「合理性」の枠の中での「自由」なのです。これは比ゆ的には、容器だけを渡され、「この中に『液体』を入れること。ただし、その『液体』の種類や量は自由にしてよい」というようなものです。したがって、「固体」を入れることはできません。また、その「容器」を破壊する(例えば濃硫酸を入れて溶かしてしまう)ような場合も許されないと理解されるでしょう。実は、このようにルールは、「枠」しか定めていない、いわば自由は枠内でのものだということは少なくありません(拙稿「社会と人」参照)。

 

しかし重要なことは、「目先の自由」ばかりに気を取られ、「目先の個性」に騙されてはいけないということでもあります。なぜなら、先の容器と液体の例でも、「ただし、それを全て飲まなければいけない」とか「ただし、それを10年間保存しなければいけない」というようなことがあるかもしれないからです。つまり、すべての「ルール」が明確にその時に示されているとは限らない。ひどいものだと「後出し」されることすらあるのです。もちろん「後出し」を責めることもできる場面もあるかもしれませんが、実は「先出し」されていたのに忘れていたり、気づいていなかったということもあるのです。

その意味で、「個性」を考えることは「自由」や「社会」ないし「秩序」・「合理性」について考える契機ともなるのです。


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