昨日、ほぼ確信のある「中間診断」を下しましたが、これからも「社会探訪」は続きます。社会は生き物だからです。逃れることが理論上不可能である社会の構成要素たる私自身の「社会観」を常に更新し続けることは、私自身にとってもなお意味のあることです。

 

今回は「規範の内面化」というものについて書いてみようと思います。

ここでいう規範の内面化とは、外部から与えられた規範を自らのものにする、つまり、自分の信念として昇華することを指します。「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに、「法律で禁じられているから」とか、「社会的非難を受けるから」といった、外的要因でもって答えることを否定させるものです。

この規範の内面化に至るプロセスは、必ずしも一様ではありません。例えば、人から「こうなのよ」と教えられて、スッと消化・昇華できる人もいるでしょう。他方で、外部に存在する規範(典型的には法律ですが、マナーや宗教戒律などもそうです)に(時には何度も)反し、(その度に)何らかのペナルティ・サンクションを受けてようやく身につける人もいます。

このことから分かるのは、規範はまず必ず「外」から与えられるものであるということです。人は何もないところから規範を生み出すことはできません。人に(時には強制的に)教えられたり、あるいは紛争を経て、その反省として獲得するものです。何もないところから生み出されたように見えても、すでに存在している規範から演繹されたものであったりするわけです。

 

規範が確信的に(信念として)内面化されると、今度はそれに従った行動を自然ととるようになりますし、もしそれに反する言動に至った場合には反省することもあるでしょう。しかし、そのような内的規範は「自分」だけのものではなく、多くは他者へも及ぼそうとします。それは自らの信念において「善き生」や「善き社会」をもたらすものだからです。こういうと、「いや、自分は自分の信念を押し付けていない」という人もいるでしょうが、それは「自分の信念を押し付けてはならない」という規範を内面化しているからそうなっているのであるし、時にはその言葉とは真逆に「押しつけるべきではない」という内的規範を押しつけていることすらあります。

この論理的帰結は、外部に存在している規範を内面化し、それによって自らの言動がその規範に従ったものになると、今度はそれが他者へ及ぶ「外部的規範」になるということです。つまり、規範は循環するのです。その中で、規範の内容は少しずつ変容し、まるで伝言ゲームのように、初めの規範とは全く様相の異なったものとなることもあるのです。

 

今の法律家の通説的な法律観は、法律は「善き生」や「善き社会」のためにあるのではないというものだと思われます。それらは、民主主義社会においては、あくまで人々が自ら思考し培われていくものであると考えられているものと思われます。とりわけ、道徳哲学や宗教というものの価値が低下している現在、人々の内的規範は区々であり、そこから生まれる外的規範はカオスの様相を呈していると言ってもいいかもしれません。


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