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能楽堂は異界との境界だ。
まず能の曲それ自体が異界との交わりで成り立つ物語が多い。 ワキ(文字通りに脇役)は現世の人間であることがほとんどであるが、 シテ(主役)は神であったり、亡霊であったり、精であったり、鬼であったり。 とりわけ前後二幕にわかれる作品では、シテは前場では現世の人間の姿を仮に現してワキと語り合い、中入りを挟んで後場では本性である異界の姿を現すことが多い。 曲が書かれた当時の日本人の死生観あるいは異界観が反映しているとしたら、遅くとも室町時代の人々は仏教的な輪廻転生を信じていなかったことになろう。 チベットで活仏制度が生まれるのは、観阿弥(1333-1384)・世阿弥(1363-1443)親子の時代より少し古いくらいで、ほぼ同時代と言っても良い。 だとすると、日本人とチベット人は同じ時期に仏教を導入したのに、それに対する姿勢はずいぶんと異なっていたわけだ。 能楽堂の構造自体、通常の世界とはずいぶんと異なる。 建物のなかに能舞台と見所(けんじょ。客席)があるのだが、能舞台には屋根がある。 建物の屋根の下の空間にもう一つ、舞台の屋根があるのだ。 橋掛かりは舞台と鏡の間(かがみのま。楽屋と舞台の中間にある控室)をつなぐ廊下で、花道のようなものであるが、曲そのものが終わった後にシテがそこを通って退場する空間である。 通常の芝居だったら、芝居が終わったところで幕が下りて主役の姿が見えなくなるのに、能では終わってもまだしばらく姿を見せ続けている。 どうしても拍手のフライングが起こってしまうが、もし拍手がなかったら、異界の住人が現世から異界に戻っていく姿に見えるはずだ。 と、舞台装置そのものが異界を感じさせるような仕掛けになっているうえに、現代社会とは明らかに異なる時間が流れている。 謡と囃子の音の波の合間あいまに沈黙が訪れる。 その心地よさは、心が落ち着いているときの坐禅や瞑想のような感じだ。 時間感覚が日常とはまるで別物だ。 しかも謡にしても囃子にしても、普段耳にする音とはずいぶん種類が違う。 一番近いと感じるのは、ドスのある声の僧侶による、鳴らしもの付きの読経だ。 僕がイメージしているのは、日本仏教なら特に密教だし、チベット仏教は儀礼に関してはほぼすべて密教だから特に限定する必要はない。 その音の快感ゆえに頭のなかにアルファ波がどんどん増えて、夢かうつつか分からないような状態になってくる。 加えるに、僕が能楽堂に来たのはほとんど30年ぶりのようなものだ。 だから時間が確実に30年かあるいは40年近く混乱してきてしまう。 その間に何人かの訃報に接した。 葬送儀礼に参列したこともある。 能とは関係のなかった人であっても、混乱した僕の頭では区別がつかない。 そうした人々が能楽堂に生前のままの姿を現したとしても僕には全く不自然でないように感じられた。 (この項,次回に続く) よろしければクリックください。 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.12.13 01:27:12
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