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近所を歩いていたら、甘い匂いがただよってきた。
記憶にある匂いだ。 振り返ったところ、クチナシの花が咲いていた。 クチナシの花は今が季節だったのか・・・。 以前はわが家でも植木鉢のなかで咲いていたが、母が庭作業をしなくなり、僕に管理が委ねられて間もなく枯れてしまった。 僕が世話をするようになってから(世話をしなくなってから、と言うべきか?)、まずクチナシが枯れ、次にハナモモの木が枯れ、今年はほとんど全てのサツキが枯れた。 向かいのお宅を見ると、ハナショウブが数日前まで大輪の花を咲かせていたのに、根元5センチほどの葉を残して切られている。 なるほど、ああやって手入れをするのか。 わが家では、お向かいから一昨年そのハナショウブを株分けしたものをいただき、昨年は中輪ながらも花が咲いたのに、今年はつぼみすらできず、瀕死状態だ。 手入れの差がこれほどまでに結果に差を生むものかと、改めて感心(嘆息?)する。 いま「手入れ」と言ったが、「手入れ」にもいろいろとある。 なんの文脈もなしに「手入れ」という語を聞くと、なぜだか僕は『広辞苑』が2番目に説明する (2)犯罪の捜査や犯人の検挙のために必要な場所に踏み込むこと。「―がある」「賭博場一斉―」を思い浮かべてしまう。 それほど僕自身に関係しているとは思えないのに、いったい何の影響なのだろうかと自分でも不思議に思う。 だが、もし国税局の査察もこの意味の「手入れ」の一種であるならば、間接的にではあるが、関係がないわけではない。 その影響なのだろうか? (ちなみに世の中には、自分側が脱税容疑で査察を受けたことがあるのに、他人に向かってみだりに「納税義務違反」呼ばわりする輩もいる。 それはともかく、「手入れ」の中心的な意味は(やはり『広辞苑』によれば) (1)手を入れてよい状態にすること。また、よい状態のままでいるように、世話をしてととのえること。浄、鑓の権三重帷子「小身者の馬の―」。「文章を―する」「庭の―」である。 空き家対策特別措置法がさる5月26日から完全施行され、ここ2週間ほど情報番組でもそれに関連した特集を扱うことが多くなった。 人の住まなくなって「手入れ」をされなくなった家が、いかに簡単に「特定空家」になるか、驚きを持ってテレビを見ていた。 最初の話に戻ると、わが家でのクチナシ、ハナショウブ、サツキなどの悲惨な状況を思い浮かべ、 他方、実際に家に住んでいて全く庭の世話をしていないわけではないはずなのに、多くの植物を枯らしてしまっている自分を省みると、 「手入れ」にはひとかたならぬ努力が必要であることを実感するのだった。 よろしければクリックください。 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.06.12 21:51:08
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