挫折感を慰撫する・ここだけの女性論16


「癒し」とか「萌え」とか「おもてなし」という言葉が流行ることの深層には、女が男の世話をするというこの国の伝統的な習俗がはたらいているように思えます。
女が男の世話をするからといって、男に従属しているわけではない。男の世話をするということは、男に寄ってゆかない、ということです。気持ちが男に寄っていっていないから、男が何をしたがっているのかということがわかる。男にくっついてしまったら、何も見えない。離れて全体の姿や気配を眺めているからこそわかる。
そして、男がよろこぶことなんか当てにしないでやっている。その「当てにしない」という「非日常性=他界性」こそ、女が立っているところなのです。
女は「非日常」の世界から男を眺めていて、そこから出てこない。男がそこに引き寄せられていって、はじめて関係が成立する。
「おもてなし」は、家の中にいて訪ねてきた客にサービスをする作法のことです。男は、女の世界にやってきたお客です。男の世話をするということだって、客を迎える作法です。
戦前の家庭では会社から帰ってきた男の背広を女が脱がせて着物に着替えさせてやるというような習慣があったらしいが、それは、この国の、「訪ねてきた旅人を受け入れもてなす」という伝統の文化です。
そして旅人は、旅に疲れ果てている。だから世話をしてやりたくなる。これが、日本的な「おもてなし」の基本です。



縄文時代は、男たちは山道を旅し続けていた。そして山の中の女ばかりの小集落を見つけ、そこで一宿一飯とセックスの恩義になる。これが縄文時代の男と女の関係だったのであり、ここから日本的な「おもてなし」の文化の歴史がはじまっている。
そのとき縄文女たちは、男にくっついて一緒に旅をするということはしなかった。まあ文明が未発達な時代の山道なのだから、女が一緒に歩けるはずもありません。というわけで、女たちは、男に寄ってゆくということをしなかった。しかし男たちは疲れた体を引きずっていつも訪ねてきていた。
日本的な、女が男の世話をするという「おもてなし」の文化は、縄文時代の、旅に疲れた男を慰撫する習俗としてはじまっている。
そういういわば挫折感に浸された男は今ではただみじめでかわいそうなだけの存在だろうが、そういう男のセックスアピールもある。そういう男は、必死に女の体にしがみついてゆくし、そういうときこそ男の性衝動はダイナミックにはたらくという生理がある。これを俗に「疲れマラ」といいます。男は、疲れ果てているときにこそ、セックスがやりたくてたまらなくなる。女は、その気配をなんとなく感じ手、「やらせてあげてもいいかな」とという気になるときもあるらしい。
縄文時代にはそのような男と女の関係があり、それが1万年も定着し続けたということは、そういうセックスの関係のダイナミズムがあったということでしょう。というか、そこにこそ人間の男と女の普遍的な関係があった。



1970年代のはじめごろ、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」という歌が大ヒットしました。女が人生に疲れて死にたくなるという歌ですが、この歌詞と西田佐知子の声が、当時全共闘運動に挫折して疲れ果てていた若者たちの心を大いに慰撫した、といわれています。
どうやら西田佐知子は、男の挫折感を慰撫する女であったらしい。
美人でしたからね。そしてどこかぼんやりして控えめなような気配があった。自分から男に寄っていくことはしないが寄ってきた男はやさしく慰めてあげる、みたいな雰囲気があったのでしょうか。
まあ、いつの時代も男はそんな雰囲気の女に対するあこがれがあるのでしょうね。
今どきの大人の女にとっては、挫折感の漂う男などただの役立たずのみじめったらしいだけの存在かもしれないが、それでも「ダメンズ」などといってそんな男に惹かれてしまう女もやっぱりいるし、そういう男と女の関係の世界もあるのでしょう。
そこに男と女の関係性の普遍的な色合いがないともいえない。
ましてや日本列島は「おもてなし」の文化がいまだに機能しているのだから、どうしてもそのような関係が生まれてきてしまう風土がある。
世界的に存在する「英雄流離譚」だって、疲れ果てている男のセックスアピールが基礎になっている話しだといえなくもない。
判官びいき義経人気はもちろんのこと、琵琶法師の語る「平家物語」が日本中で人気を博し受け入れられていったのも、「英雄流離譚」であると同時に、挫折した男を慰撫したくなる女の心と慰撫されたい男の心が日本人の歴史的な無意識としてはたらいていたからでしょう。
全共闘運動に挫折した若者たちは、平家の落人になったような気分だったのでしょうか。



「男の挫折感を慰撫する女」とは、男に寄ってゆかない女であり、寄ってきたらもてなしてあげられる女のことです。
男に寄っていって励まし尻を叩く女のことではない。「慰撫する女」には、そんななれなれしさはない。そんな賢い女よりも、一緒に泣いてあげるだけのおばかなヤンキー娘のほうが、まだ「慰撫する女」になり得ているのかもしれない。
日本列島の女は、男の世話をし慰撫しても、男に寄ってゆくということはしない。
人類の普遍として、女は、男に寄ってゆく存在ではないのです。
生き物の自然、といってもいい。
猿のメスは、ほとんどオスに寄ってゆくということをしないでしょう。
原初の人類だってその延長で、女が男に寄ってゆくということはしなかったはずです。
ただもう男が、一年中発情して女に寄ってくるようになっていった。
人類の男は、猿であることに挫折した存在だった。もともとメスの取り合いをして順位争いをする存在だったが、二本の足で立つ姿勢は、不安定な上に胸・腹・性器等をさらして攻撃されたらひとたまりもない姿勢です。攻撃する能力をなくした上に、攻撃されたらひとたまりもない存在になった。その挫折感。まあその条件のもとにたがいに攻撃し合わない関係になってその姿勢を常態化していったのだが、そのとき順位争いの生態を持っていた男は、もともとそれが希薄だった女よりも、もっとそうした存在になったことの挫折感は深かったはずです。その人間としてオスとしての挫折感のいたたまれなさが、一年中発情している猿にしていった。
まさに「疲れマラ」です。二本の足で立ち上がったことによってペニスが外にさらされ、ペニスの居心地の悪さが増大し、しかもものすごく敏感になっていった、ということもあるでしょう。その挫折感がさらにペニスの居心地の悪さを増大させ、さらに敏感にさせていった。そうしてもう、一年中発情して女に寄っていった。



また女は、寄ってこられることの鬱陶しさが増し、いつも逃げていないとならなくなった。群れ=集団ははもう、まさに「憂き世」だった。群れ=集団の中にいないと生きられない身であったが、群れ=集団のことも男のことも忘れていたかった。そうやって心は「非日常」の世界に入っていった。
猿のメスは性器が赤くはれ上がってきて鬱陶しくなるとオスにやらせてあげるが、そんなこともない人間の女は、猿よりももっとセックスなんかなくてもすむ存在になっていった。
しかし二本の足で立っている姿勢は、他者と向き合っていることによって安定する姿勢であり、それは女にも必要です。人間はみな、他者と向き合う関係になろうとする無意識の衝動を持っている。寄ってくる男はうっとうしいが、向き合う関係になれば、それなりに心も体も安定する。その向き合う関係になるということが「世話をする」という行為なのでしょう。猿の毛づくろいと同じで、世話をしている限りにおいては、相手はおとなしくしていて向き合う関係になっていられる。この関係によっておたがいが慰撫されるし、この関係によって女も、そんなにやりたいのならやらせてあげてもいいかな、という気になってゆく。
人間の女は猿よりももっとセックスとは無縁でいられる存在であると同時に、猿よりももっとかんたんににやらせてあげてしまう存在でもあります。
男を世話することの慰撫というか慰藉がある。人間にとって安心して他者と向き合っていられるということは、それなりに深いカタルシスがある。そういう関係を持つために女は、男の世話をする。
男の世話をしながら、やらせてあげる気になっていった。これはもう、現在のフーゾク産業のサービスシステムも同じです。
おそらく原始人だって、女が男の世話をする習俗は持っていたはずです。それを持たなければ、女は男にやらせてあげる気になってゆかない。



二本の足で立っている存在である人間なら、誰だって生き物としての挫折感を持っている。
そして男の挫折感を慰撫する女は、男に寄ってゆかないが、男が寄ってこないではいられなくなる。まあ、美人ということだって、それ自体で男の挫折感を慰撫しているのでしょう。うっとり眺めていれば、自分のことなど忘れてしまう。
女のセックスアピールとは、男の挫折感を慰撫する気配のことでしょうか。
美人は男を世話しないかというと、あんがいそうでもないのですよね。男に寄ってこられる鬱陶しさを知っているから、自然に男との距離のとり方の作法が身についている。追い払わないで距離をとる、それが人間の女の男に対する作法であり、世話をするということでもあるのです。女は、男の世話をしながら、男との距離をとり、ときにはやらせてあげてもいいかなという気になってゆく。
男の挫折感を慰撫する気配を持った女は、男に寄ってゆかない。男になれなれしくない。
男は、寄ってくる女によっては慰撫されない。そんな女は、用心したほうがいい。男をあれこれ吟味し、男を飼いならそうとしている。男は、女に寄ってこられると閉塞感に陥る。自分から女に寄っていって反応されるということこそオスであることの醍醐味であり、そこではじめて挫折感が慰撫される。やさしくされたら慰められるともいえない。
この男でなければ、と評価されたいのでもない。それは、男を自分の手の中に囲い込もうとしているのと同じです。世の母親は、よくそんなふうにして息子を囲い込もうとする。
男は挫折感(=生きてあることのいたたまれなさ)を慰撫されたい存在であり、女はみずからの生に対する幻滅を慰撫されたがっている。



平家滅亡の平家物語は、日本列島の男の生きてあることの挫折感を慰撫し、女の中の生きてあることに対する幻滅を慰撫していった。
日本人はことに滅びの歌が好きなのですよね。そこに、日本人のこの生に対する挫折感や幻滅を慰撫する気配があり、それはもう、人類の原初以来の普遍的な感慨でもある。男も女も、女が持っている「非日常」の世界に向かって滅びてゆくということ、おそらくそんなふうにして人類の歴史が流れてきたのだろうと思えます。
とにかく日本的な女が男の世話をするという習俗は、ただ女が男に従属していたというようなことじゃない。それによって男の挫折感を慰撫し、女自身もみずからの生に対する幻滅が慰撫されていった。そしてそれによって、文化的に男をリードしてきたのです。
現在のこの国で昔ほど男女の格差がなくなってきているのだとしたら、それは必ずしもフェミニストだけの手柄でもない。家の中で亭主の世話をしている女たちがそれぞれ亭主の世話をしながらそれぞれの亭主の意識を変えてきたということもあるのでしょう。
社会的政治的な効果がなんであれ、世の中の男と女の関係が変わってきたのは、フェミニストたちに突き上げられたからというよりも、ひとまず高度経済成長のハードワークに疲れた男たちが女によって慰撫されていったということがあるのでしょう。
まあ、セックスさせてもらえるだけで、慰撫されますよ。
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