かなしみとときめきの文化人類学23(終わり)


人間がどうしてきらきら光るものが好きかというと、どうやらそこに「死の華やぎ」を見ているらしい。それを古代の日本人は「かなし」といった。人の心は、その喪失感とともに華やいでゆく。
日本人にとっての死は、きらきら輝きながら自然の中に溶けて消えてゆくこと、消えてゆくことの「カタルシス=華やぎ」こそ日本人の死生観の根底にあるものではないでしょうか。
「あの世=死後の世界」など想定していたらこのイメージは成り立たないし、日本人は「消えてゆく」というところから心が華やいでゆく体験をしてきたからこそ、世界のどこよりも死に対して親密な民族になっていったのでしょう。
鎌倉武士の例をはじめとして、日本列島では、人が平気で死んでゆくことができる歴史を歩んできた。
司馬遼太郎はそれを「名こそ惜しけれ」の精紳だといっています。つまり「日本人は死んでゆくことの名誉を重んじる民族だった」といいたいらしい。
ではなぜ「名こそ惜しけれ」といって平気で死んでゆくことができたかというと、死に対する親密さがあり、死んでゆくことのカタルシスすなわち心の華やぎを持っている民族だった、ということでしょう。それは、「消えてゆく」ことの華やぎです。この華やぎが日本文化をつくってきた。日本人にとって死は、べつに名誉とか、そういうことではないし、鎌倉の武士が日本人を代表しているのでもない。
死んでゆくときの心の華やぎは、「消えてゆく」というかたちでしか生まれてこない。
死んでから天国や極楽浄土に行くというのなら、心の華やぎは死んだあとにしかないということになります。死んでゆく瞬間なんか、つらく苦しいだけです。そこを辛抱すれば天国や極楽浄土が待っている、というのが、キリスト教や仏教の教えでしょう。
しかし日本列島では、死んでゆく瞬間に心の華やぎが体験される死生観の文化を紡いできた。だから、死んでゆくことに平気だったのです。
「死んだら何もない真っ暗な黄泉の国に行く」といいながら、それでもどこの国よりも死んでゆくことが平気な文化=メンタリティを持っていたのです。ここのところを説明できなければ説明したことにはならない。
たぶんこれは、小林秀雄本居宣長も説明できていない。
ましてや、<日本人の「あの世」観>などといっていたら説明できるはずがない。



中世の空也・一遍・法然親鸞念仏宗教にしろ禅にしろ、彼らはもう、「あの世=浄土」よりも「死んでゆく=消えてゆく」ことのカタルシス=華やぎばかり追求していた。そこに鎌倉仏教の新しさがあったわけだが、日本人はもう、縄文時代以来ずっとそんな死生観の文化を紡いできた。土偶や銅鐸を壊して土に埋めていたことも、平安時代の宮廷の女たちが「あはれ」とか「はかなし」といっていたことも、ようするにそういうことなのです。
まだ生きてある段階での「死んでゆく=消えてゆく」ことのカタルシス=華やぎの文化を持っていなければ、そうそう平気で死んでゆくという気にはなれない。
原始人は、「あの世=死後の世界」を無邪気に信じていたから平気で死んでゆけたのではない。そんなことは知らないまま、ひたすら「死んでゆく=消えてゆく」ことのカタルシス=華やぎを身近に引き寄せながら生きて死んでいった。
そして鎌倉武士が「名こそ惜しけれ」といいながら平気で死んでゆけたのも、死んでゆく瞬間の心の華やぎを身体化して持っていたからです。それは、「名こそ惜しけれ」などという観念的なスローガンとはなんの関係もない人類普遍の原始的な実存感覚であり、縄文時代以来の日本列島の歴史意識だったのです。
そういう伝統があるから、あの太平洋戦争の「特攻隊」などという愚かなことが発想されていった。
司馬遼太郎が「名こそ惜しけれ」こそ日本的な精神だ、などといったせいで、外国人はみな「日本人は死ぬことを名誉にしている国民である」と思ってしまっているらしいのだが、そうじゃないのです。
司馬遼太郎は、日本人が死との親密な関係を持つことができるようになったのは鎌倉時代に武士が登場してからだといっているのだが、そうじゃない。それはもう、縄文時代以来の伝統であり、直立二足歩行の起源以来の人類普遍の伝統でもあるのです。べつに、鎌倉武士が切り開いた心の世界でもなんでもない。そんな心の世界は、縄文人のほうがもっと豊かに持っていたし、平安時代の宮廷の女だって持っていた。
「名こそ惜しけれ」なんて、文字を持たずにひたすら「今ここ」の無名性と即興性を生き続けた縄文人からすれば、何をかっこつけてるんだ、というていどの心の世界です。
日本列島では「消えてゆく」ことの華やぎという人類普遍の身体意識や死生観を文化の基礎として歴史を歩んできたのであり、それが、「かなし」の感慨です。



そりゃあ人間なら誰だって、死ぬのが怖いから、「あの世」がある、といわれたらひとまず信じてゆきますよ。四大文明の地で生まれてきたそれらの観念は、アフリカやアマゾンやボルネオ奥地の未開の民族さえも信じていった。
しかしその観念と世界から数千年遅れて出会った日本人は、それを信じつつも、もう一方でひたすら「消えてゆく」華やぎの死生観の文化を守り育ててきた。
それは、「死後の世界」の文化じゃない、「死んでゆく瞬間」の文化なのです。
人間のこの生は、死んでゆく瞬間の華やぎを体験するというかたちで成り立っている。
自分を忘れて何かに夢中になってゆくことも、自分を忘れて人にときめいてゆくことも、セックスの恍惚も、すべて「死んでゆく瞬間の華やぎ」なのです。
人類が言葉を持ったことだって、自分を忘れて他者にときめいていった結果として思わず音声を発してしまったからであり、その「消えてゆく」音声にときめいていったからです。「消えてゆく」ものにときめきながら、心が華やいでいったからです。
心はなぜ、消えてゆくものに対してときめくのか、なぜ自分が消えてゆくときに心が華やぐのか。それはきっと、生き物が死んでゆく存在だから、そいうふうに感じるように身体細胞ができているのでしょう。
それはまあさておくとしても、縄文以来現代まで日本列島で紡ぎ続けられてきた「消えてゆくことによって心が華やいでゆく」という文化の伝統というか文化風土のことを考えるなら、「あの世」観、などといってもらっては困るのです。
一遍も親鸞道元も「あの世」などというものの研究に邁進していったわけではなく、ひたすら「今ここ」で消えてゆくことの「カタルシス=浄化作用」を追及していったのです。
そしてそういう体験を追及してゆくと、心がどこまでも華やいでゆく世界に出るわけです。そうやって、安土桃山から江戸元禄にいたる「華やぎ」の時代が現出した。日本列島の歴史は、つねに消えてゆくことのカタルシス=浄化作用を通奏低音として流れてきた。
「あの世」のイメージを追いかけてきたのではない。



いや僕が気になるのは、偉大な思想家や芸術家が到達した境地などというものではなく、あくまで人類全体の、日本人全体の歴史の無意識です。
歴史の中の人間そのものを問いたいのです。
人の心の、歴史の無意識が時代をつくってきた。
時代の移り変わりは、人々の無意識から起きてくる。
現代だって、一部の知識人による「こういう時代にしなければならない」などというプランによって変わってゆくのではない。
変わってゆくような人々の無意識の流れがある。
まあ、戦後という時代は、生きのびるための方法論を模索しながら経済成長を実現していったのでしょう。人間のいとなみは生きのびるための方法論を追求してゆくことにある、というのが近代意識というか近代思想というものかもしれない。現在の人類学は、おおむねこの基準で歴史を語っています。それでは説明しきれない矛盾がいっぱいあるというのに、その基準を当てはめることに外に立つ思考ができない。もう、そういう時代であり、そういう世の中だから、そういう考えしかできない。
頭の中身が時代や世の中に踊らされてしまっているから、そういうふうにしか考えられないし、時代や世の中のお墨付きをえているのだから声高にそれが真実だと主張できるし、真実だと信じて疑わない。
生きのびるための方法論を語ったハウツー本が全盛の時代です。
それは、人々が生きのびるための方法論を確立できないで迷子になってしまっている時代だということを意味します。
確立できないのがとうぜんです。もともと人間はそんなことのために生きている存在ではないし、生きていればいろんな人生のまぎれに遭遇して、自分の思う通りに生きてゆける人なんかほとんどいない。そこで迷子になって、自信たっぷりの書きざまをした人生のハウツー本にすがってゆく。
「もう死んでもいい」という「かなし」の感慨が希薄になっている時代であるのかもしれない。それこそが人間存在の根底ではたらいている無意識であるのに、それを封じ込めて生きるための方法論ばかり追求している。



生きのびるためには、人を押しのけたほうがいいときはあります。それでもそんなことができなくて人生にはぐれてしまうときもある。人間は生きのびるために生きている存在ではないのだから、できないほうが自然なのでしょう。
人間は、生きのびるための方法論を喪失して「消えて」ゆこうとしている存在です。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていった。その喪失感を抱きすくめていったところから、人間的な知性や感性が生まれ育ってきた。それが「かなし」の感慨です。
たとえば、離婚するということなど、誰だって体験したくないでしょう。それでもそれを受け容れるしかないときはある。自分が生きのびるために何がなんでも、どんな手を使ってでも相手を引きとめようとすることができるかといえば、できる人のほうがかえって深みにはまって心がにっちもさっちもいかなくなってしまう。であればもう、その喪失感を抱きすくめてゆくしかない。そして、人間は抱きすくめることができるのだと知る。
死んでゆくときは、誰だって喪失感を抱きすくめてゆくしかない。まあ幸せな人生だろうと不幸だろうと、生きてあることのもろもろの喪失感を抱きすくめながら生きてきた人はそのとき死を受け入れてゆくことができるだろうが、生きのびるための方法論ばかり追求して生きてきた人は、そこでにっちもさっちもいかなくなってしまう。
人間の無意識は、喪失感を抱きすくめてゆくことができるようになっている。
だから、離婚や死んでゆくことに悪あがきしているさまを、まわりの人は自然だとは思わない。
つらくてもそれはもう受け容れるしかないだろう、と思う。
多くの人が生きのびるための方法論を追求している世の中だが、それでもそんなことばかりに右往左往していることに対して、まわりはあんがい冷ややかなのですよね。
この離婚は不当だ、みんなもわかってくれ、といっても、だいたいそんなことをいう人にかぎって、まわりから「しょうがないんじゃないの、あんたにだって原因はある」と見られていることが多い。どうやって受け容れようか、と途方に暮れているときに、はじめて親身になってくれる。まあ、そんなものです。それが、涙の揺らめきに親密になってゆく人の心です。



「別れる」という体験を受け入れてゆくのが人間性の基礎であり、その喪失感=かなしみとともに心が華やいでゆく。そういう死に対する親密さ、すなわち消えてゆくことのカタルシス=浄化作用が人間を生かしている。
「別れる」という体験は「消えてゆく」体験であり、人の心は、そこから華やいでゆくようにできている。
死後の世界があるのかないないのか知らないが、ひとまず日本列島の歴史は、死後の世界を思わないで「今ここ」に「消えてゆく」というかたちで文化を紡いできた。そういう死に対する親密さで「あはれ」とか「はかなし」とか「無常」とか「わび・さび」といってきたのであり、その基礎に人類普遍の「かなし」の感慨がある。
ともあれ日本人は、「わび・さび」といいながらそこから心が華やいでゆく文化を育ててきた。
「かなし」は、死=別れに対する親密な感慨です。死に対する親密さとして人は人にときめいてゆく。死=別れに対する親密さこそが人を生かしている。そうやって人は、炎の揺らめきや涙の揺らめきに心を寄せ、金銀宝石の輝きに魅せられてゆく。
人間は、途方に暮れて生きてある存在です。そこから「かなし」の感慨が生まれ、心は華やぎときめいてゆく。そのタッチとともに人類の歴史が流れ、人間的な知性や感性が生まれ育ってきた。
その、死にたいする親密な感慨こそが人類史の通奏低音であり、そうやって人はきらきら光るものに魅せられている。
しかしがんばってこれだけ書いてきてこれが結論ではちょっと情けない、と反省しています。問題はここからはじまるともいえる。日暮れて道遠しという感じだけれど、ひとまず「かなし」の人類史について考えてみました。
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