自滅の論理・ネアンデルタール人論58

 ここでネアンデルタール人について考えることは、人類の文化の起源の契機について考えることであり、そこから人間性の普遍=自然を探りながら現代社会の問題を問い直してゆく試みでもあります。
 現在の人類学の一般的な思考においては、ヨーロッパのネアンデルタール人は人類としての進化から取り残された原始的な存在であり、同じころのアフリカのホモ・サピエンスは知能においても身体骨格においても現代的だったということになっているらしい。
 しかしまあ、知能のかたちだろうと身体骨格だろうと人さまざまであり、何をもって「現代的」というのかよくわからない。
多くの人類学者は「未来に対する計画性」が人類の知能の基礎であり究極のかたちでもあるといい、多くの一般的な人類学フリークがそれに賛同しているのだが、ほんとにくだらない。その思考こそ知性や感性や想像力の限界であり、現代社会の病理的な傾向の一因になっているというのに。
 人類は生き延びる未来など思わないで歴史を歩んできたのであり、その目の前の「今ここ」に対する反応の豊かさによって人間的な文化が花開き進化発展してきたのです。
 二本の足で立ち上がった原初の人類は生き延びることのできない猿よりも弱い猿だったのであり、生き延びることができないからこそ目の前の「今ここ」に対する反応がどんどん豊かになっていった。そうやって意識が目の前の「今ここ」という一点に焦点を結び集中してゆくことこそ、人間的な知能の基礎であり究極のかたちであるはずです。
 人類は、同類の猿に比べると、はるかに頻繁にセックスをしてはるかに多くの子を産み、そしてはるかに多くの死者を見送って歴史を歩んできた。そうやって死を意識する存在になっていったのだが、それは、そのぶん目の前の「今ここ」に対する意識がより切実で豊かになっていったということでもある。
 人間が死を意識存在だということは、必ずしも「未来に対する計画性」を豊かに持っている存在だということを意味するわけではない。現在の文明社会がそういうコンセプトの上に成り立っているとしても、そういうことを考えることに勤勉な人もいればそうでない人もいるし、誰の中にもそういうことを考えている部分と目の前の「今ここ」に集中している部分がある。
 人の心は、目の前の「今ここ」に集中して華やぎときめいてゆく。
 目の前の「今ここ」に集中して華やぎときめいていれば、ほかのことはぜんぶどうでもいい。今どきの「生活者の思想」などといって衣食住のあれこれにこだわってゆくのは、それだけ意識の焦点が散乱しているということでしょう。現在の高度資本主義は人をそう意識にさせてゆく活動として成り立っているのかもしれないが、それは必ずしも人間的で健全な脳のはたらきとはいえない。そうやって脳のはたらきを酷使して、やがては多くの脳細胞が自滅してゆく。それを認知症とかアルツハイマーといったりするのでしょう。記憶力がいいといって多くのことを記憶していれば、やがて記憶力が自滅してゆく。
 意識が一点に集中してゆくことは脳のはたらきを酷使しないことであり。そうやってそのつど忘れながらそのつどいきいきと生起してゆく。いきいきと目の前の「今ここ」に気づいてゆく。
 意識の焦点が多くのことに散乱している人は、あんがい無表情だったりわざとらしく大げさだったりする。そうやって脳を酷使しているが、そこに本格的な知性や感性のはたらきがあるわけではない。そうやって生きていればこの社会では有能になれるが、やがてはそのはたらきによってこそ多くの脳のはたらきが自滅してゆかねばならない。「生活者の思想」などといっても、その程度のことにすぎない。人間には、衣食住のことなんかどうでもいい、もう死んでもいい、という心の動きだってある。それは、脳のはたらきが衰弱しているのではない、そのときこそ一点に焦点を結んで華やぎときめいている。


 認知症というのは現代社会の大問題のひとつらしく、近ごろは「脳の活性化」などということが盛んにいわれているが、認知症になる老人がもともと脳のはたらきが弱かったというわけでもないでしょう。脳を酷使してきた結果として認知症になることもあるはずです。
 脳のはたらきが弱いから認知症になるのではなく、脳を酷使してきた結果として認知症になる。現代社会は、人をして脳を酷使させる構造を持っている。脳を酷使しないと生きられない社会になっているし、酷使すれば上手に生きられる。上手に生きることが称揚される社会なら、多くの人が脳を酷使するようになってゆく。
 脳を酷使するとは、意識の焦点が散乱しているということです。たくさんのことに同時に焦点を結んで酷使していれば、やがては耐性疲労を起こして脳細胞が次々に自滅してゆく。まじめすぎる人は認知症になりやすい、などとよくいわれるが、それは脳のはたらきが鈍いのではなく、はたらき過ぎる傾向のことをいうのでしょう。省エネのはたらき方を持っていない。たとえば、生まれたばかりの子供のような何も知らない心で世界や他者に気づいてゆくのは、ひとつの省エネのはたらきです。それに対してまじめすぎる人の脳は、たくさんの知識や記憶によって世界や他者を裁定してゆく。世界や他者を既視感で裁定してゆく。新しい発見がない。「何も知らない」という場に立っているから「発見」という体験ができる。発見=感動、と言い換えてもいい。生まれたばかりの子供のような心で目の前の世界や他者に反応してゆくということ、そこに本格的な知性や感性のはたらきがあり、それが発見=感動という体験です。そしてそれはもう、高度な学問や芸術だけのところで起こっている脳のはたらきではない。普通の庶民でも、ボケない人はボケない。心を無にしながら目の前の「今ここ」に豊かに反応してゆくタッチを持っている人はボケない。その「無能性」が省エネの脳のはたらきになり、その「無能性」によって知性や感性が限界を超えてさらに高度になってゆく。ひとつの「飛躍」を生む。世界や他者を知識や記憶による既視感で裁定ばかりしていたら、「発見=感動」も「飛躍」もなく、やがては脳のはたらきが耐性疲労を起こしてしまう。
 ボケ老人に初歩的な字の読み書きや計算問題を日課としてやらせているとボケの進行を遅らせる効果があるらしいが、それによってボケやすい資質が改善されるわけではない。それによって彼ら特有の「既視感で裁定してゆく」という習性の能力を維持しているだけであって、「生まれたばかりの子供のような心、すなわち空っぽの状態で目の前の今ここに豊かに反応してゆく」という省エネの脳のはたらきを持てるようになるわけではない。
 目の前のあれこれに焦点を結んでいたずらに脳を活性化させても、根本的な解決にはならない。人の脳のはたらきの自然は、むやみに「活性化する」ことにあるのではなく、「省エネ」で飛躍し発見=感動してゆくことにある。自分も生きてあることも忘れてときめいてゆくことにある。そういうはたらきにおいては、学者や芸術家も名もない庶民もない。学者や芸術家だって、ボケる人はボケる。「既視感で世界や他者を裁定してゆく」脳のはたらきで学者や芸術家なれることもあるが、そんな忙しい脳のはたらきはつねにボケてゆく危険をはらんでいる。
 人の心の自然は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っている。それは。生きることに無能な存在になるということであり、そこでこそ「発見=感動」というときめきの体験が生まれてくる。
 まあボケるかボケないかは、自分や生きてあることを忘れてときめいているかどうかという問題なのでしょう。自分やこの生に執着していたら、ボケてしまう。現代は、人の心をそうやって執着させて脳を酷使させてしまう社会の構造がある。
 そういう社会の構造から、「人類の文化は生き延びるための未来に対するる計画性から生まれてきた」という現在の人類学の倒錯した言説が生まれてきた。
 人の心は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨から華やぎときめいてゆくのです。


人類の知性や感性は、「生まれたばかりの子供のような心で目の前の今ここの世界や他者にときめき反応してゆく」という「省エネ」の脳のはたらきで進化発展してきた。
 言葉をはじめとする人類の文化は、凡庸な人類学者がいうような「未来に対する計画性」によって花開いてきたのではない。「もう死んでもいい」という人間としての無意識の感慨とともに、意識が目の前の「今ここ」という一点に集中し華やぎときめいてゆく「省エネ」の脳のはたらきによって起きてきた。
「未来に対する計画性」なんて、死の恐怖という強迫観念とともに意識の焦点が散乱しているだけのことです。
 人類の文化は、「生き延びる未来なんかどうでもいい」と思い定めたところから華やぎときめきながら進化発展してきたのです。人類の知能や文化を「未来に対する計画性」で語るのはいいかげんやめにしたほうがいい。でないと、ますますボケ老人が増えていってしまう。
 ときめく心が人類文化の起源の契機になった。そんなことは当たり前じゃないですか。生き延びることなんか忘れて目の前の「今ここ」の世界や他者にときめいていった。それだけのことです。それが結果的に人類を生き残らせていった。
「もう死んでもいい」という無意識の感慨が人類を生き残らせていった。そこから心が華やぎときめき、その文化を進化発展させた。二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になった人類が生き残ってきたことは、そういうひとつの逆説だった。「未来に対する計画性」だなんて、原始人の心の動きを考えるのに、どうしてそんな現代社会の強迫観念を当てはめないといけないのか。
 人類が猿のレベルを超えて獲得していった高度な脳のはたらきは、「未来に対する計画性」のような弁証法的に脳のはたらき(思考)を積み上げてゆくことではなく、思考の回路をショートカットしていきなり気づきときめいてゆくはたらきにある。それはもう、高度な学問や芸術であれ、庶民の普段の暮らしであれ、同じことのはずです。そういうショートカットできる「省エネ」のタッチを持っていないと、いずれは脳のはたらきがパンクする。そしてそれは、老人がボケてゆくだけの話ではなく、「自分探し」にはまり込んだ若者がバーンアウトしてゆくことやいろいろ悩みが多い発達障害だって同じでしょう。
 人間的な脳のはたらきの自然や豊かさ、すなわちそのはたらきの基礎と究極のかたちは、無能で能天気なことにある。それは、「未来に対する計画性」などといって今ここにないあれこれに焦点が散乱してゆくせわしないはたらきにあるのではなく、目の前の今ここの一点に焦点を合わせてゆく「省エネ」のはたらきにある。
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