閑話休題・学術研究の耐えがたい軽さと愚かさ

最近のヤフーのニュース記事で、ネアンデルタール人に関する次のようなものを見つけた。


(引用)

スタンフォード大学のオレン・コロドニー氏と同僚研究者のマーカス・フェルドマン氏は10月31日に学術雑誌『Nature Communications』で論文を発表し、自分たちのアプローチを紹介した。
 両氏は、ネアンデルタール人と現生人類のそれぞれ複数の小集団が欧州やアジアの各地に生息していたという想定でコンピュータシミュレーションを実施。そうした小集団のうち、無作為に選ばれた一部の個体群が絶滅し、同じく無作為に——絶滅した個体群の種とは無関係に——選ばれた別の個体群に置き換わるというシミュレーションだ。
 シミュレーションは、どちらの種にも先天的な能力差はないとの想定で実施されたが、両者には1つだけ決定的な違いがあった。それは、ネアンデルタール人とは異なり、現生人類はアフリカから移住してくる増援隊によって常に補充されるという点だ。「巨大な波というよりも、むしろポツリポツリとした極めて小規模な動きだ」とコロドニー氏は語る。
 それでもネアンデルタール人と現生人類の比率をひっくり返すには十分だった。さまざまな想定の下でシミュレーションを100万回以上実施したところ、大体はネアンデルタール人が絶滅するという結果になったという。
 生存も死滅も運次第だったのだとすれば、現生人類の移住が何度も繰り返されたことによる影響は大きかったはずだ。「結局、ネアンデルタール人は負ける運命にあったということだ」とコロドニー氏は語る。
 同氏によれば、こうした移住が実際に起こったという証拠は決定的というより示唆的なものであり、「あまり多くの考古学的痕跡は期待できない」という。
 人類の起源を研究する専門家によれば、この論文は今後、ネアンデルタール人を絶滅へと導いたさまざまな要因を解明する上で役立つものとなりそうだ。「この研究は、ネアンデルタール人の絶滅を、現生人類との行動能力の差異を想定せずに説明することを目指した最近の各種の研究とも合致する」とオランダのライデン大学のウィル・ローブレークス氏は語る。同氏によれば、近年はネアンデルタール人と現生人類の間にそうした差異があるとの仮説は誤りであることが概ね証明されているという。
 ドイツのテュービンゲン大学のカテリーナ・ハーバティ氏は、今回の研究はネアンデルタール人絶滅の謎の解明には有用かもしれないが、なぜ現生人類がアフリカから欧州やアジアに拡散したのかという疑問を解消するものではない、と指摘。「その拡散の背景に何があったかを解明することが重要だ」と同氏はメールで述べている。


こういう記事を読まされると、あまりにもくだらなくてほとほといやになってしまう。
どうしてこんな薄っぺらな問題設定の研究が一流の学術論文として成り立つのか。世も末だと思う。
ここでは「アフリカのホモ・サピエンスは地球の隅々まで拡散していった」ということと「ネアンデルタール人は絶滅した」という二つのことが、疑うべくもない前提として問題設定されている。
まあ、現在のこの国の古人類学の研究者はすべてこうした問題設定の信奉者ばかりで、そこを疑ったら古人類学者になれない仕組みになっているらしく、この二つの問題に対する論争はまったくといっていいほど起こっていない。したがってこの種の愚劣で一方的な論文しかジャーナリズムに紹介されないのが現状なのだ。
ほんとに5万年前前後のアフリカのホモ・サピエンスは地球の隅々まで拡散していったのか?
ほんとにネアンデルタール人は絶滅したのか?
彼らはどうしてそのようにしか問うことができないのだろう。そのようなことを証明する「考古学的痕跡」など何ひとつない、ということが年ごとに明らかになってきているというのに。
「あまり多くの考古学的痕跡は期待できない」だなんて、どうしてこんな逃げ口上がいえるのだろう。どうして「これからそうした考古学的痕跡があらわれてくるだろう」といえないのか。
「アフリカから移住してくる増援隊によって常に補充される」だなんて、どうしてこんな粗雑でマンガじみた問題設定ができるのか、いったいどんな脳みそをしているのだろう。まったく、中学生のお昼休みの雑談じゃあるまいし。
旅というのは、行ったっきりの場合もあれば、もとの故郷に帰ってくる場合もある。「山のあなたの空遠く幸い住むという。ああわれ人ととめゆきて、涙さしぐみ帰りきぬ」という有名な詩の一節があるように、「帰ってくる」ということも勘定に入れないことには「アフリカのホモ・サピエンスは世界中に拡散していった」という仮説は成り立たないのだ。
アフリカの外に拡散してゆく能力があったら、アフリカに戻ってくる能力だってあったに決まっている。

最新のゲノム遺伝子の解析によれば、「現在のアフリカにはたくさんの純粋ホモ・サピエンスの人がいて、アフリカ以外の地域ではすべてネアンデルタール人の血が混じっている」という結果になっている。これは、アフリカに戻ってくるホモ・サピエンスはいなかった、ということを意味する。戻ってきたら、アフリカ人にだってネアンデルタール人の血が混じっているはずではないか。したがってこのデータは、5万年前のアフリカのホモ・サピエンスはアフリカの外には拡散していかなかった、ということをあらわしている。
原初の人類は拡散する猿として地球上に登場し地球の隅々まで拡散していったわけだが、アフリカに残ったものたちは、拡散しない種としてその生態遺伝子を洗練させていった。それが10数万年前にあらわれた「ホモ・サピエンス」であり、アフリカの外まで拡散していったものたちの一部がいったんアフリカの北部まで戻ってその遺伝子を拾い、やがて地球の隅々まで伝播させて混血していった。
人間なんてみな新しもの好きで、純血を保つことなんかほとんど不可能なのだ。それでもアフリカには今なお純血種がいる。それは、彼らがいかに拡散したがらない人種であるかということを物語っている。
余談だが、天皇家だって純血だとはいえない。2千年のあいだには、名もない民百姓や中国人や朝鮮人の血だって混じることはあったかもしれない。
「事実というものは存在しない。解釈だけが存在する」
ニーチェがいったのだか、いわなかったのだとか。
天皇家の純血だってたんなる「解釈」だし、「アフリカのホモ・サピエンスは世界中に解散していった」とか「ネアンデルタール人は絶滅した」ということだって、脳みその薄っぺらな人類学者たちのたんなる「解釈」にすぎない。「事実」ではない。

「増援隊」などというのは、べつにアフリカからやってこなくても、ネアンデルタール人が旅の好きな人種であったのなら、いくらでもまわりの地域から人が集まってくる。そうやって彼らはヨーロッパ中で同じ文化を共有していたのだし、寒くなれば過疎になった集団が放棄されて一カ所に集まるということもしていた。
まあ、アフリカの北部あたりまで拡散していったネアンデルタール人の血の中にあるときアフリカのホモ・サピエンスの血が混じり、それが集落から集落へと手渡されながらヨーロッパ中に拡散してゆき、ネアンデルタール人が「現生人類」へと変質していっただけなのだ。
現在のヨーロッパ人の肌が白いとか目が青いとか金髪がいるとか老化が早いとか男は胸板が厚く毛深いとか、それらの身体的特徴はすべてネアンデルタール人の痕跡だということにしないと説明がつかない。それだって「解釈」にすぎないといえばまあそうなのだが、とにかくそうなのだし、アフリカ人の痕跡だという「解釈」では説明がつかない。
旅人はその土地の事情を何も知らないのだから、基本的には先住民の助けによってようやく生きてゆくことができる。
そして上の記事でも「巨大な波というよりも、むしろポツリポツリとした極めて小規模な動き」といっているのだから、近代ヨーロッパ人のアメリカ大陸維移住というような大規模なもなものではなく、先住民に助けてもらわないと生きられない少数の「旅人」の移住だったのなら、ほとんどはヨーロッパや西アジア等の入り口で吸収されて、イングランド島やシベリア等の奥地まで移動してゆくことはなかったに違いない。
人類が最初に西アジアからシベリアまで移住してゆくのに200万年くらいかかっている。新しい苛酷な土地に住み着く能力を獲得しながら少しずつ拡散していったのだ。であれば5万年前のホモ・サピエンスだって、いくら文化が発達していたといっても、一足飛びには移住してゆくことはできないし、先住隊は増援隊が来る前に滅びてしまう。
とにかく先住民よりも後からやってきた旅人のほうがその土地に住み着く能力において優れているなどということはありえないのだ。そこに住み着く能力が、そこに住み着いてきた経験値よりも旅をしてきた経験値のほうがまさっているなどいうことがあるだろうか。
先住民のところに「旅人という増援隊」がやってくるということは、「足手まといをか抱え込む」ということであり、しかしそれによって集団員どうしの関係が活性化して全体のパフォーマンスも上がってゆく。
人類の集団は、足手まといを抱え込んだほうが活性化しパフォーマンスが上がってゆく。そうやって人類の集団文化は進化発展してきた。これはもう、現代社会においても当てはまることだろう。

じっさいの人類史においては、住みやすい南の地域ほど人の往来が少なく、住みにくい北の地域ほど活発だったという証拠がある。まあ、北の地域は寄り集まっていないと生きられない環境だから、人恋しさも濃密になる。北のほうが「増援隊=旅人」はたくさんやってくるし、集団のパフォーマンスも高くなる。
3〜2万年前のヨーロッパでは北のほうが先にホモ・サピエンス化して、アフリカのすぐ隣である西アジアホモ・サピエンス化したのはヨーロッパよりも後だったという考古学の証拠が残っている。このことを、あの研究者たちはどのように説明するのだろうか。このことは、「増援隊」などという中学生レベルの空想や妄想では説明がつかないのだ。彼らはこのことを平気な顔をして「人類史の謎」などといっているのだが、このことについて考えようとする態度があれば、「増援隊」などという問題設定が成り立たないことくらいすぐわかりそうなものではないか。
アフリカから人がやってきたのではない。北から順番にホモ・サピエンス化していったのだ。このことのわけを説明できなければ、何もはじまらない。
原始時代に、「旅人」である後発の集団が先住民を滅ぼすということなどあるはずがないし、後発の集団が存在したという考古学の証拠もない。それはもう、南から順番にホモ・サピエンス化していったということでなければつじつまが合わない。
現在の考古学では、ヨーロッパでいちばん最後のネアンデルタール人集落は、ヨーロッパの入り口であるバルカン半島あたりにあった。それは、北ではいち早く寒さに弱いホモ・サピエンスのキャリアの個体でも生きられる集団運営の能力を獲得していったが、南ではなかなかその能力が身に付かなかったということを意味する。そのころはまだ氷河期で、だからこそ南ヨーロッパ西アジアでもでも寒さに強い純粋ネアンデルタール人でなければ生きられなかったのだ。
5万年前から2万5千年前くらいのあいだは一時的に寒さがやや緩んだ間氷期で、北ではいち早くホモ・サピエンス化し、南は最後のころになってようやくそうなっていった。
北のイギリス・フランス・ドイツは、南のスペインやギリシャイスラム社会よりも集団運営の文化の伝統が発達している。それは、たんなる技術的な問題だけではない。ときめく心であり人恋しさの問題でもある。そういう心を共有しながら培われていった集団運営の技術なのだ。
人恋しさは、北の地域ほど切実で豊かになる。西アジアが出自のユダヤ人は、けっきょくヨーロッパ人とのときめき合う関係をつくれなかった。現在のイスラム移民にしても、人恋しさやときめきが希薄だから、ヨーロッパ社会にまるごと溶け込んでゆくことができない。
ヨーロッパが西アジアやアフリカよりも集団性が進化発展しているのは、環境風土による伝統であって、アフリカのホモ・サピエンスの末裔だからではない。アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパ人になって集団性を進化発展させたのなら、現在のアフリカ人だってそれなりの集団性を備えているはずだが、彼らの伝統は「ミーイズム」にある。

「アフリカから増援隊がやってきた」だなんて、世界一流の古人類学者ともあろう人達が、何をくだらない研究をしているのだろう。
アフリカ人は、違う部族のものと一緒に暮らすことを嫌がる。それがアフリカの伝統であり、だから今でもあちこちで内乱が起き、どこでも国家の運営が上手くできないでいる。そんな人たちが、ただ同じアフリカ人というだけでわざわざ「増援隊」になってヨーロッパに出かけてゆくことなどするはずがない。
南アフリカのホッテントットケニアのマサイ族の集落に行って歓迎してもらえるとでも思っているのか。そういうことをしない人たちだから、アフリカではいくつもの身体形質の種族に分かれてしまっているのだ。別れてしまっている、ということは、何万年何十万年も昔からそういう生態の人たちだったことを意味する。
「増援隊がやってきた」というような現象は、ネアンデルタール人の社会でこそ起きるのだ。氷河期の寒さが厳しくなって集団の存続が困難になれば、まわりの集落からどんどん旅人がやってきた。極寒の時期は、そのようにして小さな集団が消滅してしまうことがよくあった、という考古学の証拠が残っている。彼らは旅をする人々だったのであり、寒いときは集落の数を少なくしてまとまり、暖かいときは多くの集落に分散していった。
ヨーロッパでは集団の離合集散が頻繁に起きてどんどん血や文化が混じり合い、、アフリカではたくさんの集団に分かれたままそれぞれ独自の身体形質や言語文化になっていった。
何が「増援隊」か。十数万年前に登場したアフリカのホモ・サピエンスは人類史上もっと拡散したがらない人種だったのに、今ごろの世界の古人類学者たちはどうしてわからないのだろう。アホばっかりだと思う。ほんとに、ほんとに、いやになってしまう。
アフリカから「増援隊」がやってくることなどあるはずがないことくらいちょっと思考実験すればわかることなのに、今どきは世界的に猫も杓子も勝ったか負けたかの競争原理で人間を考える癖がついてしまっているから、どうしてもそういう問題設定になってしまう。
文明はどんどん進化発展していっているのに、人間的な知能の本質としての論理的な思考力も感性的な想像力も、そして人と人が他愛なくときめき合う関係性や集団性も、ますます後退してしまっている。
何度でもいう。「魂の純潔に対する遠い憧れ」を失って人類の民主主義の未来はない。
ネアンデルタール人は滅んだのではない。そして人類史上もっとも苛酷な環境を生きたネアンデルタール人こそ人類史上もっとも切実に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を生きた人々であり、われわれがネアンデルタール人の末裔であることこそ、われわれの希望なのだ。そこのところを、あの人たちはどうしてわからないのかなあ。