独断と偏見

独断と偏見

20年前に書いたブログがまだ生きていました。
すでに60歳を超えて老年になり、過去を振り返りつつ思うところを書いてみたいと思います。

久々にブログ再開します。
不定期、気の向いたときに思うがままに書いてみます。
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 高齢者の一人暮らしはみじめでさみしい。

 特に仕事を離れた男性で友人もなく話し相手もいない孤独な老人は

 不幸である。

 などと、あたかも独り者はみじめで不自由で不幸だと決めつけるような書物が多い。

 

 孤独死したくなければ、積極的に友人を作る努力をするべきだという。

 そのための方法としては、趣味のサークルに入ったり古い友人に連絡を取ったり

 ボランティア活動や地域の集まりに参加したほうがいいらしい。

 間違ってはいない。

 少なくとも人と交わることが幸せだと感じ、誰かと関係を持っていないと生きがいが感じられない人には有効なアドバイスかもしれない。

 でも、あなたはみじめで不幸ですと決めつけるような前提で書かれるのはおかしくないか。

 

  一人でいることを楽しめる人には孤独であることが問題視されるようなことはない。

 

 ある本によると

 年を取ってからは教育と教養が大切などと言う。

 今日、出かけるあてがある。

 今日、なすべきことがある。

 それが生きがいを作るという事らしい。

 そういう言葉を聞いてなるほどと思う人も多い。

 でもよく考えてみれば、現役時代は嫌でもそういう生活ではなかったか。

 

 現役時代はそういう生活が嫌で嫌でたまらなかったではないか。

 

 もちろん

 現役時代は強制的に今日やるべきことを押し付けられたのに対して

 定年後は自分の好きなように行動を決めらるという違いはある。

 

 自由で自主的であるのが幸せだというならば

 無理に教養や教育を作らなくてもダラダラ過ごしたっていいはずである。

 そのほうが気が楽だという人も多いに違いない。

 

 でも、それだと孤独になる。生きがいがなくなる。不幸になる。

 そういう生活はさみしいしみじめだと勝手に決めつけてしまう。

  

 ある本には現役を退いたら夫婦で仲良く暮らすのが幸せだという

 オシドリ夫婦のようにいつでも一緒に行動して

 趣味も同じで、友達も一緒。

 それが理想らしい。

 

 もちろんそれが幸せと感じる人はそうすればいい。

 お互いが憎しみあって暮らしたり、喧嘩ばかりして一緒にいるよりは

 ともに暮らすのであれば仲がいい方が幸せで

 別に間違っていることを書いてあるとは思わない。

 

 でも憎んだり嫌悪しているのでなければ

 お互いがそれぞれ別の生き方をしていたってともに暮らすことは出来る。

 

 それに、いつも一緒だと煩わしいし、一人の時間が欲しい人だって多いと思う。

 なにもかもをお互いがわかっていないと生活できないわけでもないし

 考え方が違うものどうしが暮らしていると不幸なわけでもない。

 

 

 現に夫源病などと言う言葉もあって

 一日中夫にそばにいられるとストレスだと感じる女性も多いのだから

 定年後は仕事ばかりしで妻との会話をおろそかにしていたことを反省し

 極力妻と会話を持つようにした方が

 さみしい老後にならなくて済みますなんてアドバイスをまともに信じて

 実行すればかえって妻に疎まれる。

 

 孤独は不幸だなんて決めつけたよう話や

 孤独な人は早死にするなんて統計があっても

 不幸かどうかは本人がどう思うかの話であって

 偉い先生にあなたが不幸か幸せかを決めてもらうべきことではないのである

 

 高齢者の話ばかりになってしまったけれど

 若い人に対しても

 休みの日にどこにも出かけなかったというだけで

 かわいそうで寂しい人生でみじめだと決めつける人もいる。

 

 

 決めつける人にとっては孤独な休日は寂しくてみじめかもしれないが

 別の人にとっては一人で過ごせる休日はゆっくりと英気を養える時間であるかもしれない。

 

 何をして過ごす時間が幸せかは人それぞれなのである

 

 若い人にとっては恋愛もしない生活は面白みがないと思うかもしれないが

 そういうものがなくても十分満たされて生きている若い人だっているのである。

 

 ステレオタイプに未来を考えて、結婚して子供や孫に囲まれた人生だけが

 幸せの形ではないのである。

 

 結局のところ

 自分が幸せかどうかというのは

 いかに自分に合った生き方ができるかに尽きると思う。

 

 人と関わっていきることに喜びを感じる人は

 多くの人に関わり、たくさんの友達をもち

 常に連絡を取り合う生き方ができれば幸せ。

 

 でも、そういうことに喜びを感じない人もいる。

 

 自分の時間を大切にして、煩わしい人間関係は最小限にして 

 自分のために自分の楽しみを味わう生活を送ることに幸せを感じる人もいる。

 

 一番大事なことは

 周りから見て幸せそうと思われることではなくて

 自分が幸せと感じるかどうか。

 それが周りから見ればかわいそうでみじめだと見えてもいいのである。

 誰かに見せるための人生ではない。

 

 一般的に言われている幸福な人生と自分の人生を比べることなどないのである。

 そのために必要なことは

 自分を知るという事だと思う。

 

 

 友達がいないこと、一人でランチを食べる姿を見られることが

 恥ずかしい、みじめだと感じている人もいるようです。

 

 また、友達がいない人間は問題がある人だという価値観を持っている人もいます。

 

 今は独身者や、離婚歴のある人も増えたので以前ほどではないにしろ

 それでも、40を過ぎても独り身だと何か欠陥があるとか

 離婚する人は我慢が足りない人、あるいは結婚生活に問題がある人だと

 そうみる方も多いように思います。

 

 そういう偏見があるので、余計な批判や中傷を恐れて

 友達や独身であること、恋人がいないことを隠したがる気持ちもわかります。

 

 でも、友達がいるかいないか、家庭を持っているかいないか、

 恋人がいるかいないか、子供がいるかいないかと

 その人の性格に問題があるかどうかは関係ありません。

 

 正社員であるか派遣であるか

 一流企業で働いているかどうか

 給料がいいかどうかは

 その人に問題があるかどうかの基準にはなりません。

 

 そういうものは本人の幸せとは関係がないし 

 友達や家族がいなくても幸せにはなれます。

 

 ただ、人が持っていて自分にないものがあると

 そのことが自分にとっての不幸の原因だと考えることに問題があると思います。

 

 友達が沢山いたって、収入が多くたって

 会社で高い地位を築いていて優秀な子供がいたって

 その人が尊敬できる人物ではないことや、

 本人が幸せを感じていないことはあります。

 

 みじめだと見られたくなくて友達関係を続けようとする方が問題です。

 

 中身のない人ほど自分を飾ろうとする。

 

 友達がいないことを気にする人は

 自分が満たされていないからなのではないでしょうか。

 

 自分が満たされていて、日々の生活が自分にとって満足できていれば

 自分に足りないものに劣等感をもってみじめさを感じることもないのです。

 毎日が自分のしたいことに時間をかけられるので、友達がいなくても気になりません。

 

 幸せとは自分がそう感じるものであって

 人から見て幸せそうかどうかは関係ないことですが

 自分が幸せかどうかより、人から幸せそうに見えるかどうかばかりを気にするのは

 自分には何もないこと、自分が空しいことを知られたくないからです。

 

 友達がたくさんできれば幸せになるというのでしょうか。

 結婚すれば幸せになると思いますか。

 一流企業にはいれれば幸せになれますか。

 

 幸せは自分で作るものではなくて誰かに運んでもらうものでしょうか。

 

 すべてを得ることは出来ません。

 ですが、すべてが必要なわけでもありません。

 

 要はどこで自分が折り合いをつけるかです。

 

 今の自分の生活でも幸せと感じることは出来ます。

 たとえ、友達がいなくても

 それでも充実して幸せだと感じることは出来ます。

 

 たとえば健康でいておいしく食事を頂けるだけでも

 十分幸せです。

 

 みたいテレビを見れたことだけでも幸せと感じることもできます。

 

 なにからなにまでそろわないと自分の人生が空しいというわけではなく

 どこで自分が折り合いをつけて、これでいいんだと思えるかの問題です。

 折り合えない人はいつも満たされず

 自分の空虚な穴を埋めるために友達や恋人を作ろうとします。

 それでも空しいと、家族を持っていないからだとか

 収入が少ないかからだとか、自己実現できない仕事のせいだとか

 そういうものを持たない自分をはずかしいとか不幸だとか考えるのです。

 

 結婚できただけでも幸せなのに 

 相手の理解が足りない、優しさが足りない、

 挙句には相手の両親が足かせだ

 介護までしないといけないなどと

 足りないものを見続けては自分はみじめだと思い

 他人にはいかにも幸せな家族ですと見せようとする。

 

 幸せに見せようとする時点で、すでに幸せでないのです。

 

 友達がいないことが恥ずかしいことやみじめなのではないのです。

 うまくいっていない夫婦であることがみじめで恥ずかしいのではないのです。

 そういうことに囚われていることが恥ずかしいことなのです。

 

 どういう状況であれ

 自分が幸せであろうとすれば幸せになれます。

 

 なぜなら、幸せとは自分の感じ方なのですから

 

 人と比べて足りないものを見ている限りは幸せにはなれません。

 人に自慢しようとか幸せそうに見せようとか思っている限りは幸せにはなれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どう生きたらよいかという人生指南の本はたくさんある。

 そして、私のように生き方をテーマにした記事も

 ネットの世界にはたくさんある。

  

 そういうたぐいの文章の中には

 世の常識からすればおかしいと思えるような奇をてらったものもあるけれど

 多くはごく当たり前のことを言っている。

 

 ただ、問題は当たり前で正論ではあっても

 自分にとってそのことができるかどうかは別であるという事。

 

 しかめ面で生きるよりも笑顔が絶えない人のほうが

 人に好かれるだろう。

 友人が少ないよりは多い方が楽しいだろう。 

 学力がないよりはあったほうが何かと有利だろう。

 結婚しないで子供も作らない人生は老後に不安が多いだろう。

 

 だからといって

 自分にそれができるか、自分の性質としてそういう生き方があっているかは

 別の問題。

 

 もっと笑顔になりなさい

 もっと友人を増やしなさいと言っても

 無理しなければそうできない人にとっては

 そういう指南はストレスを増やすだけのこと。

 

 よくしたもので

 無理は続かない。

 

 一般論からすれば正しい生き方も

 自分に合わないことは見につかないようになっている。

 

 結局のところ

 自分に合うように生きてゆくしかない。

 なるようにしかならないのである。