2018年02月13日

  たまに立ち寄りたくなる


その後向かったお店は『肉匠 紋次郎 守口市駅前店』であった。


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ここは一応事前に予約を入れておいた。

5時の開店と同時に入った。

店内に入るとお客さん我々だけであった。

と言っても予約のお客さんでほぼ満席状態であった。

ここは週末になると予約を入れておかないと中々入れないのであった。

勿論我々も事前に予約を入れておいた。

我々は入り口近くのテーブル席に座った。

早速注文をした。


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注文は、上塩タン、上ロース、上カルビ、ハツであった。

とりあえず『ウコンの力』で乾杯をする事にした。


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乾杯ー!!

この『ウコンの力』は的屋のたっちゃんが用意した物であった。

引き続き生ビールで乾杯をする事にした。


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乾杯ー!!


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上塩タンと上ロースと上カルビとハツ

肉質的のレベルとしては『中』

いわゆる、『可もなく不可もなし』って所か。

まあー、安心しながら美味しく頂ける的な。

そんな味わいだ。

そんな味わいだから忘れた頃にたまに立ち寄りたくなる焼肉店である。

『紋次郎』のタレが和風の味わいで滅茶苦茶美味しい。

この和風の美味しさは後を引く感じで大阪では中々味わえない。

旨味成分のイノシン酸とグルタミン酸を存分に楽しむ事が出来る。

このイノシン酸とグルタミン酸をしっかりと味わえる神髄こそが全く外れのない

『肉匠 紋次郎』なのであった。

猛牛ポーズをした。


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猛牛ポーズ!!

そんな感じの『肉匠 紋次郎 守口市駅前店』であった。











ほんでもって、ある日のおうち御飯。


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シチュー鍋が無茶苦茶最高に美味しいのであった。





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孔子の弟子、子貢について。

史記によれば、その弁舌で魯を救い、呉を滅ぼすほどだったとか。

どこまでが真実か。

「魯を救い、呉を滅ぼした」というのは『史記仲尼弟子列伝』に紹介されている

子貢の外交活動に関しての評価。

正しくは「存魯,乱斉,破呉,強晋而霸越(魯を残し、斉を乱し、呉を破り、晋を

強め、越を覇者とした)」である。

前484年、斉が魯を攻めると聞いた時、子貢は呉に赴き、援軍を要請をした。

この外交活動が成功し、呉は魯に協力して斉を破った。

(艾陵の戦い)

これが「存魯、乱斉」である。

実は呉が出兵する前、呉王夫差は後方に越がいるので出兵を渋った。

この時、子貢は夫差に「越にも出兵させて一緒に斉を撃てばいい」と建策した。

子貢は夫差の使者として越に入り「今は呉を助けて斉を討つべき。

呉は斉に勝った後、調子に乗って晋と対抗するはず。

そうなれば簡単に呉を滅ぼすことができる」と勾践にも進言した。

勾践は子貢の言に従い、呉に協力する姿を見せた。

その結果、呉は魯を助けることに同意して出兵し、斉を破った。

艾陵の戦いに勝った呉は子貢が言った通り晋と覇権を競い、黄池で会盟を行った。

(前482年)

そのすきに越は呉を攻め滅ぼしてしまった。

晋は中原で勢力を増し、呉を滅ぼした越王勾践は覇者を名乗った。

これが「破呉,強晋而霸越」である。

子貢の外交により斉は呉に敗れ、越は呉を滅ぼした、というのも誇張ではないと

思う。

子貢を縦横家の祖とする見方もある。

端木という姓は多くはないが宋代の『百家姓』にも記載されている古くからある

姓である。

最近中国で放送された人気ドラマ(歴史系では無いです)にも端木という登場人物

がいた。

黄帝の次男昌意の子顓頊の家系で鬻熊という人物がいる。

鬻熊は周の文王、武王の師を務めたと言う。

鬻熊の次男を端木といい、典という子を産んだ。

典は父の名を姓とし、端木典と名乗った。

これが端木姓の元祖と言われている。

(当然、黄帝、顓頊等は伝説だが)

子貢はこの系列とされている。

それ以外にも回族に元々端木という姓があり、中原の端木と融合したとも言われて

いる。

但しこれは子貢よりももっと後の話。

『史記』にも魯と呉が協力して斉と戦った、と書いてある。

『十二諸侯表』の呉夫差十二年に「与魯負斉」とあり、斉簡公元年にも

「魯与呉負我」とある。

どちらも前484年のことなので、艾陵の戦いのことだと思う。

端木賜の子孫ですが『列子楊朱第七』に衛の端木叔という富豪が出て来る。

子貢の子孫となっている。

三国時代に端木痒という有名な儒家がいた様だが、出典は探しきれていない。

清代以降から最近まで、挙人、政治家、画家等がいる様だが、日本人には馴染みが

ない。











「神道ハ祭天ノ古俗」

「神道は天(自然)を祭る古い習俗である」という意味。

久米邦武は岩倉遣欧使節団に随行し、帰国後その視察の詳細を『特命全権大使米欧

回覧実記』(全100巻)にまとめた人物で、近代歴史学の先駆者だった。

この「神道ハ祭天ノ古俗」は、久米が神道について述べた論文で、表題どおり、

神道とは自然崇拝(アニミズム)に属する古くからの習俗であって、教条的な

宗教ではない、という主張だった。

明治の王政復古によって、奈良~平安時代の律令制の官制が復活した。

当然、全く時代に合わないもので大変な混乱が生じた。

この時に神祇官という官職が復活した。

神祇官とは宗教政策を担当する役人だが、これが意外なほど高い地位を得ることに

なった。

神祇官に就任したのは今のネトウヨの元祖のような国学者達で、彼らが神道の国教

化を推し進め、神仏分離令を出して廃仏毀釈を主導するなど、日本の伝統文化を

著しく破壊したのだった。

制度としての神祇官はすぐに廃止されたが、神祇省、教部省と名前をかえて、神道

の国教化は継続された。

国教化する以上、神道は「宗教」でなくては困る。

神道は宗教であるのか否か。

これは仏教伝来以降、神道がずっと抱えて来たテーマであった。

神道にはキリストや仏陀のような教祖や教主はいないし、なによりも神道にはドグ

マ(教義、教え)がない。

宗教と呼べるような要件をそなえていない。

奈良時代以降、神仏習合が進む。

そして、神仏を基に集合するための理論として本地垂迹説が唱えられ、その後は

山王一実神道、両部神道、伊勢神道、吉田神道といったさまざまな神道説が唱え

られた。

これらの神道説は、すべて「神道を宗教っぽく見せたい」という願望によって

生み出されたものである。

更に、江戸時代に入ると儒家神道というのが唱えられる。

これは神仏ではなく神道と儒教を一緒にしようとするものである。

仏教や儒教と一緒にしないと神道は宗教とは呼べないものだった。

しかし、江戸時代後期になって平田篤胤というまさにウヨクの元祖のような国学者

が登場して復古神道というものを唱える。

復古神道とは神道を仏教伝来以前の姿に戻せという主張でしたが、実際には仏教伝

来以前の神道などはまさしくアニミズムに過ぎないので、平田一派があれこれと

創作をした珍奇な宗教になってしまった。

平田篤胤が唱えた排他的な国学と神道が幕末の尊皇攘夷運動の思想的背景となった

関係から、明治はじめに神祇官となった連中は、平田篤胤の信奉者だったという

いきさつがある。

この視野が狭く、偏狭で、頭の悪い教条的な神道家達にとって、「神道は宗教なん

かじゃないよ、ただのアニミズムだよ」というのは非常に都合の悪い真実だった。

久米は論理的な反論ではなく、「無礼だ、不敬だ」と非難され、職を追われること

になった。

これが「神道ハ祭天ノ古俗」筆禍事件。





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h_t_tomoto at 06:34コメント(0)トラックバック(0) 

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