イタリア、フィレンツェにて、イタリア人の夫と暮らしています。
2017年春に第一子となる息子ピピウ(仮名)を出産。
ただ、26週というかなりの早産で生まれてしまった息子。
息子が生まれてからNICUを卒業するまでの過去の出来事を当時の日記をもとに書いています。
~腸1回目の手術後~
ピピウの手術が行われたのは週末でした。
なので翌日もダンナと一緒に朝からNICUへ。
保育器の中のピピウには相変わらずたくさんの管がついていて、薬でずっと眠っています。
少しして、NICUの医局長Dr.Fが私たちの所へ来ました。
「手術の結果はとても残念だ。でも、小腸が全くないわけではない。希望はある。未熟児で生まれているため、小腸が伸びてくれることを祈ろう。今は、繋げた腸がしっかり機能するかが課題だ。」
とても冷静な説明でした。
でも、「希望はある」と。
その言葉にすがる気持ちでした。
ダンナとNICUを一旦出て、週末で外来もなくガランとした院内の大きなホールの椅子に座りました。
ダンナが、「大丈夫。僕たちの息子は大丈夫。小腸が短くても、生きてくれさえすれば。小腸延長の手術もあるとドクターも言っていたし…。」と言いました。
私に話しかけるのではなく、自分に言い聞かせているような話し方でした。
私もそのダンナの言葉を聞いて、「うん、大丈夫。私たちがいる。何があってもあの子には私たちがいる。」と言いました。
ダンナに言ったのではなく、自分にそう言い聞かせました。
その次の日も、ダンナとNICUへ行きました。
NICUに着くと、ドクターが「便が少し出たよ。」と。
それは、短い腸が機能しているということ?!
ダンナがドクターに尋ねると、「まだ分からない。その可能性もあるが、肛門に近い場所にあった便が出ただけの可能性もある。」と。
それでも、私たち夫婦は望みを捨てませんでした。
大丈夫。
この子は大丈夫。
ずっと、ずっと、自分たちにそう言い聞かせました。
そうしないと、おかしくなりそうだったから…。
次の日はダンナはどうしても外せないアポがあったため、私一人でNICUへ行きました。
朝、NICUに入るとNICUの医局長やその他のドクター、ピピウの手術をしてくれた外科医局長が集まってデスクのところで何やら話しています。
「腸が…」という言葉が聞こえたような気がしました。
私はピピウの保育器の側でピピウを見つめながら、
「ピピウのことを話してるんじゃない。」
「お願い、私の所のに来ないで。私の所には来ないで。」
と、強く繰り返し祈りました。
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