森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

『永遠のゼロ』、『カエルの楽園』他へのコメント

2017-05-04 14:07:33 | 社会問題

ジブリの映画『風立ちぬ』を観て深く感動した。その映画評をこのブログにあげた。これは、言論プラットフォーム『BLOGOS』にも掲載された。しかし、一般に公開された数多くの『風立ちぬ』の映画評の中で“最も分からない映画評”というコメントをいただいた(笑)

私の映画評は、護憲派の人から「零戦という飛行機は血染めの歴史を持つ。最初は真珠湾で太平洋戦争の火蓋を切り、最後は特攻機として数多の若い生命を無意味な死に追いやった。太平洋戦争を象徴する忌むべき飛行機だ。この映画は零戦を主題にしていながら、そのことが全く示されていない。明示すべき真の問題点を避けた駄作である。あなたの映画評も、この映画と同様に零戦の歴史的な意味について全く触れていない」というコメントをいただいた。このコメントは、一つの見方として良くも悪くも私の心を刺した。

ジブリは左寄りだと思っていた。そのジブリの映画を私の映画評も併せて、その護憲派の人はここまで酷評した。

前後して、小説『永遠のゼロ』が映画となった。『永遠のゼロ』の原作者である百田尚樹氏は右翼として著名であり、左派系の集会に行くと彼は蛇蝎のごとく嫌われている。

明示すべきことがなされていないとジブリの映画ですらそこまで厳しく批判されるのなら、右翼原作の零戦映画はさらにどこまで酷いか、試しに観てやろうと思ったのが、それまで読んだことのなかった百田氏の著作に触れる切っ掛けとなった。“零戦については、〇〇と描くべし”・・。その描くべしが描かれていないと、ジブリの映画ですらここまで批判される。だがしかし、その〇〇が描かれてさえいれば立派な映画だということになるのか?それでは新しい発見や気付きが生まれるはずがないではないかと私は思う。発売後数年で『永遠のゼロ』は300万部を超え、映画にもテレビ番組にもなった。一体どれだけの人が影響を受けたかわからない。〇〇さえ描かれていれば・・という考え方それ自体に大きな問題があるように私は思う。

左派系から毛嫌いされる百田氏が零戦をどう描いたか、さぞかし敵をバッタバッタとなぎ倒す無敵の戦闘機として描かれているのだろうと思った。また国のために死ぬことこそ真の男の道だと描かれているのだろうとも想像がついた。『永遠のゼロ』には否定的な書評がたくさん出ていて、中には書評が書籍になっているものすらある。何も知らない幼子を騙し、日本の子どもに憧れさせ、日本を戦争へと導くための嘘と誤魔化しの物語だろうと思った。

そんなことはなかった。それは“純愛物語”であった。自分には生涯を共にしたい伴侶がいる。しかし特攻で自分は死ぬ。死んでなおその伴侶と生涯を共にする。今はやりの霊となってあの世から帰ってくるとか、タイムスリップではない。生身をもって、その伴侶と生涯を共にするのである。さてどう描いたか?!

著者は、零戦乗りの主人公“宮部久蔵”に「俺は自分が人殺しだと思っている!」と言わせた(講談社文庫、p.225)。一体全体、過去の軍人で、自分の行為、役割、仕事を“人殺しである”とストレートに言える人がいるだろうか。ストレートに認めることができるか。おそらく殆ど誰もできないだろう。しかし誰もできなくとも、まさにそれは真実である。軍隊は人殺しの組織であり、兵器は人を殺す道具である。人を殺すためではなく、鳥や魚を殺すための兵器があろうか。著者はこの物語において、主人公の口を借りて、まさにそれを率直にストレートに述べた。このたった一言から、著者が軍隊とは何か、その真実を見抜き、また心の奥底で平和を望んでいることがわかる。著者はまた、零戦が非人道的な機械であることを見抜き、この物語でそれを開示している。『永遠のゼロ』についての賛否両方の実に様々な書評を読んだが、著者がこの物語において真に示したものについて、それを捉え真正面から言及したものを、ついに私はただの一つも見つけることができなかった。

なぜ零戦は非人道的な機械か?それは、零戦が2000km以上もの航続距離をもつという、この点にある。むろんそれだけでは“非人道的機械”にはならない。零戦が単座であることと対になることで、それが生まれる。零戦が単座であることは誰でも知っているので、特に言葉で明示はされていない。零戦に二人が乗り込む場面はどこにもないのでそれは分かる。この両者の組み合わせによって“非人道的機械”が生まれる。プロペラ機なので、最高速度350km/h、平均250 - 300km/hで、計算上最大9時間程度は連続で飛べることになる。それで中国の奥地やラバウルで、片道3時間、戦闘1時間、帰り3時間という行程が可能となった。合計7時間、連続して空を飛ぶ(講談社文庫、p.41、p.212)。

もし生理現象が起きたら、気分が悪くなったら、睡魔に襲われたら・・どうするのか。自動車なら路肩によけて仮眠する。高速道路であればサービスエリアなど、ひととき運転を止め休息することができる。しかしただ一人で、途中で降りること適わず最初から最後まで連続して空を飛ぶのである。ふらふらっとして落ちた飛行機がどれくらいあったか、想像にあまりある。正々堂々と、同じ土俵で闘って負けるのであれば、“非人道的機械”という言葉はそぐわないだろう。たとえ敵戦闘機に比べて大幅に性能が劣ったとしても、それは“性能が劣った機械”というだけで、“非人道的機械”とは言わないだろう。しかし、生身の人間が独りだけで、7時間も8時間も空中にいることを可能にした機械、闘った結果負けて死ぬのではなく、生命があるが故に、生身であるが故に死ぬ。これを非人道的と言わずして何を非人道的というのか。この物語、『永遠のゼロ』がこの世に出なければ、零戦に隠されたその深い罪、心に刻むべき点について私は知ることがなかっただろう。この物語がなかったならば、零戦の真に忌むべき点について知ることはなかっただろう。零戦について様々の主張や指摘がある。しかし、この物語ほど深く零戦に対する指弾と告発を行ったものを、私は知らない。

次に、『風の中のマリア』という小説を読んだ。これは、オオスズメバチの生態を擬人化した小説で『永遠のゼロ』のような感動はなかった。しかし迫力満点の作品で、あっという間に時が過ぎた。私は生物学者なので、エンターテインメントとしてとても面白い良い作品であった。

『カエルの楽園』は、書評がほとんど見当たらない。左派系の人は殆どが、この物語を無視すると言われる。私は、『コスタリカに学ぶ会』に入って、月に1、2回いろんな議論をするが、やはりそこでもこの物語が話題になったことはない。読んでみて、やはり『風の中のマリア』と似て『永遠のゼロ』のような深い感動はなく、しかし『風の中のマリア』ほどのボリュームもなく、あっという間に読み切った。この物語は、現代の日本社会の情勢を背景として、憲法9条をとても大事なものとする護憲派の考え方を批判した著作である。批判は批判として冷静に受け入れ、おかしいと思われる点については、反論すればよい。2016年2月に出版され同5月には優に10万部を突破している。図書館で借りたが数十人の順番待ちであった。

私はやはり“コスタリカに学ぶ会”で話題になったYoutubeの『Kazuya Channel』について自分のブログで真正面から受け止めた上で、批判をしたことがある。

この物語は、人類の未来においてとても重要と思われる憲法9条について批判をしているのであるから、護憲派の人がどうしてコメントしないのか、どうして無視するのか私にはわからない。まさか、この著作の内容に反論できないのではないだろうが。

この物語で、私が手を止めたのは、スチームボートという名のワシが「お前たちカエルどもが自分の国とかよその国とか言っているが、馬鹿馬鹿しい限りだ。この世界は全てわしの監視下にあるのだからな」(新潮社、p.74)というセリフだ。狭いところしか見ない視野狭窄から、視点を高く大きくもてば、自分の国だ、よその国だと騒いでいるのは馬鹿馬鹿しい。

まさにその通りである。その局所しか見ない目、局所しか頭にないことが人間を殺し合いへと導く。まさに馬鹿馬鹿しい限りである。なぜもう少し長い時間で考えないのか。なぜ交渉相手に敬意を払い、友情を持って譲りあおうとしないのか。なぜ初めから疑い、喧嘩腰で接するのか。

この著作には、以下の“3戒”が固く遵守されていることによって平和が保たれているとされる、ツチガエルの国“ナパージュ”が登場する“ナパージュ”とは我が国“日本”のことであり、“3戒”とは現在の平和憲法の比喩であろう。

“3戒” 1「カエルを信じろ」 2「カエルと争うな」 3「争うための力をもつな」

明示された“3戒”のうち最初の“1.カエル(人間のこと)を信じろ”は人類の未来にとってとても重要である。疑いの心、喧嘩腰の態度で折衝してうまくいくだろうか。相手を見下したり、喧嘩腰は、いかに言葉は丁寧でもそれは相手に必ず伝わる。交渉がうまくいくはずはなかろう。ハンドレッド(著者の代弁)も、ウシガエルには敬意を払わないが、ワシには敬意を払っているではないか。“3戒”のうち2つ目の“2.カエル(人間)と争うな”はおかしい。護憲派の人でこんなことを言う人はいないだろう。主張が違い、見方が異なれば堂々と争えばよい。ただし暴力で、殺し合いで争うなと護憲派の人は言うのである。どちらに理があるか、冷静に、敬意を持って、同じ人間としての意思とそれが形となった言葉と態度で争うのである。ワシもヒキガエルも人間の比喩である。別種であれば喰われることもあり得るが、この物語ではアマガエルも、ツチガエルも、ヒキガエルも、ワシもどれも国を表す比喩である。同種であり、実際には喰われることはない。“3戒”のうち3つ目の“3.争うための力をもつな”もまたおかしい。護憲派の人がこんなことを言うはずはない。著者は“3戒”において、護憲派の人を大きく誤解している。争うための力は持っていいと、護憲派の人の殆どは言うだろう。護憲派の人は、人間同士が殺しあう道具、これから生まれる子孫がずっと使うこの大地、自然環境を破壊する力では争ってはならないと考えるのである。交渉相手に暴力の一歩を踏み出させない、グッと留める力は殺し合いや破壊し合う力の強弱ではない。今や世界中が繋がる経済の力、言葉の違いを超える文化や芸術、医療や食料の援助、農業技術そういう力が戦争を防ぎ殺し合いを止めるのである。護憲派の人は、人殺しや環境破壊の軍事力、暴力ではなくて、そういう“力”を、戦争を防ぐために使え、人類はなぜこんな大きな頭が授かったのか、そのためではないかと問うのである。

この物語は、世界最強の“ワシ”が守護神としてツチガエルの国を守ってくれたことになっている。しかし、その“ワシ”も歳をとり弱った。ツチガエルを守って欲しければ、“ワシ”も必要な場合は守って欲しいとツチガエルに逆提案をした。お互い様、至極真っ当な提案である。護憲派の人がこれに反対するわけがなかろう。それはワシの国に、敵が攻めてきた場合である。ワシが、あの国にある金銀財宝を奪いにいくぞ、お前も来い。こう言って、ツチガエルを尖兵として使おうとする。護憲派の人には、それが見えるのである。著者も含め改憲派の人は、ワシに尻を叩かれて一緒に奪いに行くのか?改憲派の人は、護憲派の人がどう考えているのか、これでわかろう。

さらにハンドレッド(著者の代弁)は、こうも言っている。『この国には偉大なるスチームボート様がいるからだ』『それは王の名前なのか』『いや、違う。ナパージュの僭主だ。この国の本当の支配者だ』(新潮社、p. 66)つまり偉大なるワシ(スチームボート)は、このツチガエルの国(日本)の支配者であると明言し、堂々と認めているではないか。現在の平和憲法は米国が作った。日本人独自の憲法を作りたいと、改憲派の人は改憲を主張する。しかし、右翼の百田氏が、この国はワシの支配下にあると堂々と認めている。他国に支配される国が、自分たち独自の憲法を作れるはずがなかろう。日本人だけの独自の憲法を作りたければ、まず支配する他国に出て行ってもらって、その影響を断ち切る必要があろう。でなければ、日本人独自の憲法など寝言であろう。この物語は、ここまで読み取ることができるし、むろん著者の百田氏もそう書いている。スルーせず、一歩を踏み出し、深く読んで大いに議論すれば、護憲派にとっても改憲派にとっても、日本の未来のためにとても有用であろう。

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