『義父の最期』について、またかなりの期間ぶっとんでしまいました。ごめんなさいm(_ _ )m
義父をなんとか再入院させ、夫と私がホテルへ突如宿泊することになったその翌朝。
午前9時
まずケアマネさんへ状況を電話報告。
再入院が大変だった経緯を伝えたところ 、非常に申し訳なく思ってられる様子でした。
ケアマネさん、義父を最期まで面倒看てくれる施設を調べてくださっていて、すぐさま私たちは教えてもらった施設見学のアポを取りました。
今度は病院のソーシャルワーカーの人(前回入院時にもお世話になった人です)へも状況報告のため連絡したところ、この日の1時に面談の手はずとなりました。
午前10時半
ホテルチェックアウト後、電気屋さんで電気シェーバーを買い、その後、夫は仕事へ、私は病院へ向かいました。
義父は、この2ヶ月髭を剃ってない状態です。
義父の家に最低シェーバー3個はあるはずだったのですが、さすがのゴミ屋敷、しかもみんな義弟が仕事で留守にする頃をねらっては、義父の面倒を診ていたので、時間も切迫していて見つけられず仕舞でした。
午後1時
病院のソーシャルワーカーの面談室にて
この面談は、ソーシャルワーカーの方と私との二人だけで行われるものだと思っていたのですが…、
私の隣にソーシャルワーカーの若い女性、そして正面に二人の若い内科のお医者さんが席に着きかれ、おやっ!?と、思いました。昨夜は入院も不可能かなと思えたのですが、どうも状況が一変したようです。
しかし、ここの病院の職員のみなさん、ほんとにお若い!!
前回入院時にお世話になった心臓外科の先生も、20代前半に見え、はじめはてっきり技師さんか何かの方かなと思ったほどでした。
そして今回の内科の先生の一人は、とても初々しい感じの方でした。
まずこの席で全員、『もう義弟のいる家へ義父を帰すべきではない』という意見で一致。
その後、
一番若い方の先生(この方が義父の主な担当になってられるようです)が、おっしゃりました。
「今、ミネラルバランスを調整する点滴を施しています」
それもそのはずです。最後の数日、義父は食べ物はおろか水分も摂ってなかったようです。義父のベッドのそばに飲食物が置かれていましたが、義弟は相手の口元へ食べ物等、持って行ってあげるという事ができなかったためです。
「お父さん、この後(この入院の後)、もうあまり移動させない方がいいですよ」
「それは…その、例えばショートステイ等をつなげたりとか、施設から施設へ移動したりしない方が良いということですね?」
私は、言葉の意図を探るようにお医者さんの顔をうかがうと、その表情が、義父の容態の悪さを物語っています。
「はい」
思わず、私はうつむいてしまいました。
『ショートステイをつなげる』という方法は、先月の入院時に緊急の処置として福祉課の人やケアマネさんが考えていた一つのプランの事を意味していました。
3年前の熱中症の時と同じようにのように、義父が再び元気になってまた歩き出すという事はもう起こらない。
命の長さを表す砂時計の砂が、今まさに目の前でさらさら流れ落ちて行っている…
これまでの間ずっと、『先がわからないという事』が心に重くのしかかっていて、夫も私もずいぶん振り回されてきました。
ものすごいストレスでした。ハルさん介護の負担だってきついのに、ハルさんが老健入所中のほっとしていた矢先にこれです。
先月の入院時も、義父はスポーツ新聞をいつも枕元に置いていて、退院後も自分の通帳を枕の下へ隠し、元気になりさえすれば、またギャンブルをやる気満々な様子で、私達家族は、義父をもう見放したいと思っていたほどなのですが。
それなのに、どうした事か胸がキュッと痛みました。
寂しさ?
物悲しさ?
これまでと違った感情に、あれっ? と、思いました。
義父の入院騒動以来、どっぷり義父と関わってしまったからでしょうか?
介護の問題が起こる前まで、夫の実家との『家族としての関わり』は、他の家よりもずっと薄い方だったと思います。
夫の実家と少し関わったのは、娘のユイがせいぜい小さい頃まででした。
というのも、ハルさんの認知症の症状が出る前、ハルさんがものすごく癇癪持ちだったからです。
これはとりわけ私の事が問題となっていました。はじめて会った時からもう『目の敵』状態でした(今は、私の事を嫁というのも覚えてなくて、ハルさん自身キャラチェンジもされていて、信じられないほど素直で従順です!!)。
しょっちゅうキャンキャン大声で怒鳴りちらし(これは私の事についてです)、娘のユイもうんざりしてしまって小学校の途中から夫の実家へ行かなくなっていました。
ただ、こんな事もありました。
ハルさんの私への怒りが最高潮だった頃、義父が私に『すみませんね』と言ってくれたのです。
(;^_^Aこんな所で文字数超過のエラーがでてしまいました。
この続きは次の日にm(u_u)m