日本会議唐津支部 事務局ブログ

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【中学歴史教科書8社を比べる】333  (23) 日中関係Ⅱ(第1次世界大戦以後)-21- <ⅳ 日中戦争(支那事変):まとめと考察 2-3/n> 

2017年10月22日 | 中学歴史教科書比較(2)h28-令和2年度使用

(23) 日中関係Ⅱ (第1次世界大戦以後~1945) -21-

ⅳ 日中戦争(支那事変)-8-

■まとめと考察 2-3/n ※まとめ表:再再掲



 

3 事件から1か月後の「上海事変」まで、日本は「侵略の意図」をもって戦闘・戦線拡大を続けたのか? 

■基礎知識 <ウィキペディア:日中戦争>より~ 

 ※このシリーズのウィキペディアの記事の掲載日(=コピーした日)は、シリーズ記事掲載前日か当日がほとんど。古くてもせいぜい1週間ほど前です。

 

・「国民政府の対日武力行使決定 (※松永:赤字は中国軍、緑字は日本軍の行為)

  中国共産党は7月15日に国共合作による全面抗戦を呼びかける。蒋介石も7月17日、盧山談話会において、中華民国は弱国であり戦争を求めてはならないが、やむをえない場合は徹底抗戦すると表明する。・・・7月20日には中国軍第37師部隊は再び盧溝橋付近で日本軍に攻撃した。7月21日、蒋介石は南京戦争会議で大日本帝国に対して武力行使を行うという方針を採択した。7月23日、南京副幕僚長孫浜将軍が北京と保定の軍に対日戦闘を勧告した。・・・

 中国軍の挑発と日本軍の総攻撃

 中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した。 1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した大日本帝国軍が休憩していると中国軍が襲撃した(郎坊事件)。日本帝国軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し、同地を日本軍が占領。日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった。

 翌7月26日に広安門居留民保護に駆けつけた日本帝国軍が広安門で中国軍より銃撃を受ける(広安門事件)。

 7月27日、日本軍(支那駐屯軍)は総攻撃の実施を決定した。東京の内閣は内地師団動員を下令。第5師団第6師団第10師団の動員派兵を決定。同日午後11時、南京政府は日本側へ、北支当局と日本軍守備隊の協定に関する交渉を日本へ申し出た。

 7月28日午前5時、日本軍支那駐屯軍、北支で攻撃を開始。中国軍は5000余人が戦死、撃滅され、同日夜、北平にいた宋哲元、秦徳純などは脱出した。

 日本の同盟軍(中国人部隊)による通州事件(日本民間人虐殺)

 7月29日には、日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して大量虐殺を実施した通州事件が発生。同日同時刻に29路軍が天津の日本人租界を攻撃した。 この通州事件は日本軍民に暴支膺懲の意識を強く植え付けることとなる。

 日本軍の北平(北京)・天津占領とチャハル作戦

 7月31日、日本軍(支那駐屯軍)、北平・天津地区を制圧。 日本軍は7月末には北平天津地方を制圧後、8月には河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦が8月9日より関東軍が察哈爾省(現在の内モンゴル自治区)とその周辺へ攻略を開始した(チャハル作戦。後に10月17日に包頭を占領し、日本の傀儡政権蒙古連盟自治政府を樹立し、張家口に駐蒙軍(日本軍)が置かれた。その際、9月9日、山西省陽高で日本軍が武装解除もしくは非武装の成人男子を300名以上を虐殺したとされる事件(陽高事件)があったとされる。」

 

・「上海事変

 上海での中国側挑発と日本軍増派

 同8月9日、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された (大山事件)。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した。 8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した。8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた。8月13日午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した。

 8月13日、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた。

 翌8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た

 日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もあるが、近衛内閣8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は拝日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、上海派遣軍が編成された。一方、同8月15日に中華民国も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蒋介石が就任、戦時体制を確立し、さらに中国共産党も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった。

 その後、8月下旬、蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦ゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。戒厳令であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。」

 

・「渡洋爆撃(日本軍の中国への組織的空爆

 8月15日日本海軍、渡洋爆撃を開始。15日より16日にかけて、日本海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌南京広徳杭州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃を行った。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。

 8月17日、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した。

 8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した。

 8月20日日本海軍、漢口爆撃。 8月21日中ソ不可侵条約が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された。8月22日には西北地域の共産党軍(紅軍)を国民革命軍第8路軍に改編、総兵力は32000。

 8月23日、日本陸軍が上海上陸開始。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった。

 8月26日、駐華英国大使ナッチボルー・ヒューゲッセンが日本海軍機の機銃掃射によって重傷を負う。日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したためイギリスの対日感情が悪化してしまうが、約一か月後に解決した。

 ニューヨークタイムズ1937年8月30日記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じた。

 1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍第1軍第2軍へと編成される。

  • 9月2日 - 日本、北支事変を支那事変と改称。
  • 9月5日 - 日本海軍、中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
  • 9月9日 - 山西省の陽高で、関東軍が中国人を虐殺する陽高事件が発生する。
  • 9月13日、国民政府、日本軍の行為を国際連盟に提訴。
  • 9月14日 - 日本軍(北支那方面軍)、北平・天津より南進を開始。保定攻略。
  • 9月15日〜22日 - 日本海軍航空隊、広東方面攻撃。22日までに中国空軍、全滅。広東空襲に際し国民政府は赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、一週間で100人以上がスパイ容疑で処刑される 。
  • 9月21日 〜22日 - 日本陸軍航空部隊、太原飛行場を爆撃。 同21日には国際連盟の日中紛争諮問委員会が開催。
  • 9月22日第二次国共合作が成立する。
  • 日本海軍航空隊は9月23日に南昌を、翌日の9月24日に漢口を爆撃する。

 国際連盟の日本空爆への非難決議

 1937年9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。

 他方、1937年10月、ローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した。東京朝日新聞は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した。

 

 

 以上、大量のウィキペディア記事を載せ、《中国軍と日本軍の行為》、および、《日本軍の行為は”単なる領土侵略”とは言えない、ことを推理することができる文章》、を強調提示した。

 くりかえすが、《日清・日露戦争~1945年の日本敗戦確定》の間の日中関係は、《全体としてみれば”日本の中国侵略”である》とするのは妥当だと思う。しかし、それは、16世紀から続いた「欧米列強:植民地帝国主義による世界侵略」とまったく同じ動機・目的ではない、と思われる。

 中国亜大陸への進出・侵攻(侵略)における日本政府や軍部や国民の(大小、かつ、さまざまな)動機・目的は、《①日本国の防衛(ロシアと、その後継国ソ連・共産主義からの)、②経済的利益獲得植民地化、投資など…)、③”権力”の獲得(軍部の一部など)、の3つにおおまかに整理できるだろう。

 そのうちの①は明治維新からのとても強い動機であり、欧米列強の世界侵略とははっきりと違う。

 明治維新後、「国家・領土の護持」は当然として、「国体の護持」、すなわち《2千年ほどにわたる日本文明の中心にある「皇室の護持」→「立憲君主制の護持」》は、日本国民のほぼ”絶対的願い”だったのだ。

 したがって、(”歴史のif" は禁じ手なのだが、)もしも中国人(国民党政府と、コミンテルン・中国共産党など)と列強諸国が、満州国を承認していたとしたら、日中戦争は起こらなかった可能性が非常に高いと思う。

 しかし、実際は、軍事・経済両面にわたる強力な、①ソ連:コミンテルンによる中国共産党への指示・援助、②米英などによる蒋介石:国民党政府への援助が1945年まで続き、”中国全土にわたる泥沼の戦い”になったというのが歴史的事実だ。日中戦争には、列強諸国による《中国亜大陸での”代理戦争”》という要素もかなり強い。

 

●東京書籍以下の6社は、上記①という、明治維新後の近代日本の国際関係で最初に生じた最大最強の動機を無視している。 → ×

 

次回、まとめと考察3:いわゆる「南京事件」、につづく~

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《著者:松永正紀  教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》 


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