「僕には未来がある」と気が付いたので、
土曜日だけではなく日曜日も自分自身を大事にしようと思い、
土曜日とは異なるお寺の座禅会に行った。
座禅して昼食を食べた後、奥の間にある弁天様の前で座ると
「何を求めて生きている?」
と尋ねられた気がした。
私は、今まで、「自分には未来がある」などとは一度も思ったことがなかったので、当然のことながら、人生の目的は、何もなかった。
おそらく、誰も信じてくれないだろうが、目的もなく、ただ食べることだけを目当てに生きてきたような気がする。
良く言えば、人生に目的などなく、ただ単に、今ここを楽しむ
ということなのだが、それだけでは自転車の片方のタイヤしかないようなものだということに気が付いた。
「僕は、いったい、何を求めて生まれ、何を求めて生きているのだろうか?」
自問自答を繰り返すが、頭の中は空白で、何も言葉が浮かばない。
仕方がないので、元の場所に戻り、座布団に座った。
午後は、和尚さんのお話を聞く。
和尚さんは、『魔訶止観』の一説を手書きしたもののコピーを配り、お話をされた。
その中で、「生きがい」について、ご自分のお話をなさった。
とても感動する話だったので、機会があれば詳細を書きたいが、
今日は、その一部のユリの花を書こうと思う。
和尚さんが、昔、お堂の籠られて座禅をしていた時、
ある朝、目の前の花瓶の中のユリが花開く瞬間を見て、
こんな薄暗い、お線香の煙だらけの部屋でも
ユリは、全力で見事に花開くと知った時、
仏性を知ったというようなことをおっしゃっていた。
昔のお坊さんが悟った時、草刈りの途中で鎌が石に当たった音で悟るとか、手桶の水に映った月を見ていたら、桶の底が抜けて水がなくなった瞬間に悟ったとか、色々な逸話を聞くが、和尚さんは、薄暗いお堂の中で、座禅中に、ユリの花が咲く瞬間を見て悟られたのだろうと推測した。
私のような凡人には、悟っているかどうかは、全くわからないが、少なくとも、目の前の和尚さんは、悟りの体験をしたのであろうと言う推測が、私のこれまでの知識から、論理的に確証を得られるような気さえした。
場所を選ばず、時間を選ばず、いつでも、どこでも、全力で花開く。
生きがいは、24時間、全てにおいて生きがいであるものだ。
もし、趣味であれば、趣味以外の時間は、生きがいのない時間になる。
限られた時間しか、限られた場所でしか、生きがいがないようなものは、本当の生きがいではない。
和尚さんは、そのようの看破しておられた。
僕は、一応大学で仏教をかじったのだが、この和尚さんの知識は、とても素晴らしいと思い、毎回、講話を聴くのが楽しみなのだが、今日の話は、私の身にジャストフィットだった。
お話を聞いた後、「先ほど、弁天様の前で座らせていただいた時、『何を求めて生きている?』と尋ねられ、私は全く分からなかったのですが、今、和尚さんの『生きがい』のお話を聞き、とても役立ちました。ありがとうございます。」と深々とお辞儀をしてお礼を申し上げた。
僕は、「何を求めて生きている」のだろうか?
当分、その答えは出てきそうもない。
僕は、マインドでは、毎日がとても幸せだと思っている。
でも、今、ここを楽しむだけではなく、
「何を求めて生きている」のだろうか?
私には、未来がある。
その未来は、私の魂が求めているものを探すための未来なのだろうか?
いや、そんなはずはない。
未来は、探し物をするためのものではない。
リアリティ。現実は、今、ここにしか存在しないということを充分に気が付きつつ、
その上で、やはり、未来というものも概念では、今、ここに存在している。
僕の心の中に、「何かを求める」というものが無いことは、
それは、未来の中で探すのではなく、今、ここで、この自分の心の中で探すものだ。
しばらくの間、今、ここで、僕は、何を求めているのだ?と自問自答しながら、しばらくあがくことができそうなので、楽しみがまた一つ増えてしまった。
今日は、とてもおめでたい日だった。
それにしても、僕は、青いと思う。
お坊さんの世界では、「五十六十ハナたれ小僧」というらしいが、
本当に、自分がハナたれ小僧であると、あきれ返って笑いがでてくる。
そして、しあわせだなぁと思う。
今日は、「天災は忘れた頃にやってくる」の内容ではないのですが、
今日の和尚さんの話の中に、天災時の仏性の話が出てきたので、
一応関連しているということにしてください。
和尚さんの、天災時の話は、後日書きます。
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