ひさびさに更新します。


何かしら自分の中に問題(悩み)を抱えていて。

「なんとかしたい(回復したい)」と言う人は大勢います。


けれど、本当の意味で回復できる人は、経験的に2割程度。


残りの6割は現状維持。


残りの2割は「そんな事までして回復したくない」などと言ってやめてしまいます。

※もちろん、長い目で見れば、その時はできなくとも、何年後かに思い直す人もいます。


それは、その人が弱いからだとか、根性がないからだとかではないと思っています。


むしろ、強い(我慢強い)からこそ、回復せずにいられるのだと。


回復は難しい事ではありません。

「自分らしく生きる」

「苦痛(つらさ)から解放される」

むしろ“ 楽しい ”のです。


しかし、自己を抑圧してきたり、我慢してきた人にとっては


『楽しむ』(楽をする)ということは、「甘え」や「怠け(なまけ)」「弱さ」に感じられます。


そして、甘えや怠け、弱さは“ 悪い事 ”だと思い込み、自分が何かを楽しむと『罪悪感』を感じます。


『楽しむ=罪悪感』なのです。


この罪悪感に苛まれ、体が拒否反応を起こす。

※鬱になったり、自分自身や他者に攻撃的(自傷行為や他罰的)になったりします。


僕は、回復にとってこの『罪悪感』が一番の鬼門だと感じています。


※ なぜ楽しむ事に罪悪感が生まれるのかは、他の人や書籍に任せますが。


僕自身、以前は、ワイワイ騒いでる人たちや、楽しそうにしている人たちを見ると、『怒り』が湧いていました。


・僕(私)はこんなに我慢してるのに

・あいつらは我慢せずに

・楽しんでいる(楽をしている)

・弱い連中だ(悪いヤツらだ)


そうやって、イライラした気持ち(怒り)を抱えながら生きていました。


その『怒り』をずっと心の中に抑え込み、耐える事で体調を崩し、人と会えなくなったり。


自分自身を傷つけたり、物に八つ当たりしたりしていました。



しかし、信頼できる周りの人に

「楽しむ事は悪い事ではないよ?」

「楽しむ事は、リラックスしたり休むって事だよ?」

「リラックスしたり、休む(眠る)事はそんなに悪い事なの?」

「だから頑張れるんじゃない?」

「楽しいって大事な感情だよ。」


などと、言われました。

言われた時はピンとこなかったのですが、それでも、少しずつ、自分の考えや思い込みを修正していきました。


『楽しむ事=大事な事』なのだと。


そこから、「自分はどんなことに『罪悪感』を感じるのか?」


それに気づいては紙に書き出していきました。


その作業は、僕にとっては「新しい発見」にもなり、楽しかったのを覚えています。


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「大事にしてくれない人を大事にする事をやめて」


「大事にしてくれる人を大事にしていくこと」


それは、同時に、自分が今までいかに大事な人を軽く扱っていたか(傷つけていたか)。それを知る(認識する)事にもつながります。



自分が「許せない」「汚い」「冷たい」などと思っていた他人の姿が、実は『自分自身の姿』でもあると気づく瞬間でもあります。





その時に、心の中で“絶望”にも似た何かが音をたてて崩れる。


まるで自分にだけ地震が起こった様な。
血の気が引くような思いをしたり、混乱しパニックになったりもします。


回復過程の中には、その崩壊が起きそうになると、その崩壊を必死になってくい止めようとする時期・段階があります。



今まで生きてきた中で培った自身の価値観やアイデンティティーが、根底から崩れ落ちそうになるのです。本人からすれば、それはとても大きな(ショックな)ことです。



なので、自己防衛としてそれを未然に防いだり、回避しようとします。



とても大きなエネルギーを集中させるため、頭が回らなくなったり、心が何も感じなくなる。やたらと体が疲れたり、動けなくなったり、心が不安定に(しんどく)なります。



ちょっとした衝撃でもガラガラと崩れ落ちそうになるので、それを引き起こす人や場所との接触を避けがちです。(出社拒否、ひきこもるなど)

時には人など(自分の安全を脅かす存在)への暴力に発展する場合もあります。


そうやって自分自身を守ります。


ただし、守ろうとしているのは“絶望にも似た何か”です。

守りきった後に待っているのは、激しい徒労感や(それこそ)絶望感かもしれません。


実は、回復過程の中で、一番難しいところが“この部分”なのかもしれません。



回復したい →しばらく進む→心の中に地震が起きそうになる→身を守る→落ち着いてくる→再び回復したいと望む


これを繰り返してしまうのです。


回復したいと言うのは、変化を望むということなのですが、この“変化”がいざ起きそうになると、とても怖いのです。


特に、深い絶望の中で生きてきた人ほど、それはとても怖い存在に感じます。


絶望を大事にしてきた人にとって、とても怖い存在。

それが「希望」なのです。


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他人の言葉や行動の裏読みばかりしていた時期がありました。



人の言葉は、全部、本音(本心)じゃないって。

みんな本音(本心)を裏に隠している。


 あの優しい人も

 この優しい言葉も

 あたたかい笑顔も


全部、ぜーんぶ、ウソっぱちだと。

本音(本心)は、裏で俺のこと嫌ってるんだろう?


傷つけようとしてるんだろう?

バカにしてほくそ笑んでるんだろう?


そうやって、ビクビクしながら、他人の顔色や本音(本心)、態度、裏側…

そればかり気にしていた時期がありました。


怖かったんですね。


 『もう二度と傷つきたくない』って。


 『騙されたくない』って



それで、必死になって、自分の小さな心を守ろうとしていた。

守るために、必死になって、相手のことばかりを気にしていた。


ずっと。ず~っと。人が怖かった。



でも、ある時、気づきました。


きっかけですか?


 自分のために泣いてくれた人がいた

 自分のために傷ついてくれた人がいた

 自分のために…


いっぱいありました。

※あくまで個人的なきっかけに過ぎません。


この人たちの言う言葉はウソじゃないって。

俺を傷つけようとしていないって。

むしろ、守ろうとしてくれてるんだって。


そしたら、今までのこと(過去)も、ぜ~んぶ、思い出されてきました。


俺が勝手に怖がって、不安になって、疑心暗鬼になって、相手を疑っていただけで、本当は、相手はちゃんと本音(本心)を言ってくれてたんだって。


「俺は、なんてことをしてきたんだ!」


と、本当に心から悔やみ、反省しました。



あんなに人は優しいのに。

あんなに人は俺のことを守ってくれていたのに。

俺は、信じずに、傷つけてばかりいた。


周りはみんな、俺のことを守ろうとしてくれていたんだって。


そう気づいた時に、



「じゃあ、一体、誰が俺の事を傷つけていたんだろう??」



そう考えるようになりました。