意思による楽観のための読書日記

神社の起源と古代朝鮮 岡谷公二 ****

「神社と神道は日本古来の宗教」という考え方と「神社と神道は稲作とともに弥生人によりもたらされた」という考え方がある。本書は神社は渡来人、それも新羅からもたらされたという仮説に基づき、現場である神社がある近江、敦賀、但馬、出雲、三輪、豊前そして南朝鮮の慶尚南道各地をめぐる。読み手のスタンスによって、少しでも名前が似ていれば朝鮮半島由来という我田引水的とも読めるし、はたまたやはり天皇家の先祖も含めて弥生人であり渡来人なのか、とも読める。私は「神社、八幡社、稲荷社などは稲作をもたらした弥生人が、持てる技術である銅器、製鉄、医術なども含めて豊かな生活と収穫を願った形」というスタンスで本書を読んだ。

本書は「フィールドワーク実践編」との副題のように、上記筆者仮説を検証しながらの旅行記という形を取りながら、各種学説の引用を踏まえながら仮説の補強をしている。近江では白鬚神社、水尾神社、余呉湖の北野神社、伊香具神社、近江八幡の苗村神社、鏡神社、安羅神社などをめぐり各地の新羅、伽耶の痕跡を探す。まず全国に400社あるという白鬚神社は新羅系神社であり、近江の白鬚、比良はシラ、ヒラという音から新羅、シーラ由来であるとする。白山信仰も新羅由来であるという学説も紹介する。近江に勢力を張った水尾氏(三尾)は元は越前に由来し、製鉄技術を近江にもたらしたという。琵琶湖の湖西地域には磁鉄鉱が産出、多くの製鉄遺跡がある。継体天皇は越前出身で、7-9人の后妃を迎えたが三尾氏出身の女性が数人いるとし、湖東の息長氏とも関連していずれも新羅系ではないかと推測している。湖西の和邇あたりにいた豪族和邇氏も製鉄に携わり、こうした多くの豪族は弥生時代に朝鮮半島から製鉄技術と稲作技術をもって日本列島に移り住んできた勢力であるとする。移住経路は北九州経由、出雲経由、越前経由、但馬経由など多くの経路があったと考えられる。筆者は魏志や三国史などの書物や関連各諸説からそのように推測しているようだ。

琵琶湖の北にある余呉湖、ここには新羅崎神社があり新羅の王子とされる天之日矛(アメノヒボコ)が祀られている。日本書紀には「天之日矛が宇治川から遡って北近江を経由、若狭から但馬に至って住居を定めた」という記述がある。この天之日矛は諸説あるが、一人ではなく朝鮮半島より製鉄技術をもたらした人たちのことを指すのではないかと筆者は考えている。また、ここ余呉にも伝わる羽衣伝説は世界中に見られるが、特に朝鮮半島と日本列島には多い。北野神社と言う名前にはなっているが、明治維新の神社合祀令で新羅崎神社も合祀された。近江の神社には天之日矛を含め新羅の痕跡が数多く見られる。しかし古代の一時期より新羅蕃国視があり、明治以降も朝鮮蔑視傾向から、新羅を白木、白城、白姫、白岐、白鬚、白井などと名を変えてきた地名が多いというが、ここ新羅崎神社近辺には新羅の名を地名に残す場所が多い。神社に新羅の影響が多いのは、仏教公認が高句麗、百済に比べて1世紀半以上遅れていて、古来信仰がより深く根付いていたためという。日本で最も多いという八幡神社、稲荷神社も新羅系の秦氏が祀った神社であったという。

日本では祠堂や神社が古来より国家の庇護を受けてきたのに対し、朝鮮では仏教、その後儒教を国教とし国家の庇護を受けられず、さらに太平洋戦争後は生活改善(セマウル)運動やキリスト教の広がりもあり、朝鮮半島では祠堂はほとんどその存在を見られなくなっている。筆者はそれでもその痕跡を探しに慶尚南道に幾つかの祠堂跡を見つけるが、その形は日本に見られる神社の原型で、社殿などの建物はなく、神社の原型である森や岩石が残されている。日本でも沖縄のせいふぁ御嶽や若狭のニソの杜、対馬の天道山、薩摩のモイドンなどが残っていて韓国の学者から注目されているという。これらは原始的な太陽信仰や穀霊信仰などに密教なども習合していて、韓国には残っていない古代信仰の形が見られる。

敦賀の気比神宮の祭神は伊奢沙別(イササワケ伊讃別)命、仲哀天皇、神功皇后、大和武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命の7座、筆者は伊讃別命こそが祭神であり仲哀天皇以下は後からの合祀であるとする。さらにこの伊讃別命が天之日矛であり都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)であるという学説を支持している。

出雲では素戔嗚尊に関し、新羅系の帰化人の象徴であり、出雲地方に製鉄技術をもたらした一団であるという学説を支持。日本中に点在する素戔嗚尊を祭神とする神社は新羅系だと考えられるという。一方、古事記・日本書紀には多くの記述があるこの素戔嗚尊、出雲国風土記には簡単なそっけない記述があるだけで、かえって不自然、出雲国の風土記を編纂した国造が意図的に大和朝廷の記紀の記述に反抗したと考えられるとする。意図的に新羅の痕跡を消そうとする試みはこの頃すでに見られるという考え方である。これは出雲地方には3つの勢力があり、一つは古くから住み着いていた杵築神社を祀った海人部の人たち、その後朝鮮半島から製鉄技術をもたらした素戔嗚尊を奉ずる韓鍛冶の人々、三つ目は東出雲を根城とした熊野神社を奉ずるひとたちであった。3-4世紀頃に吉備方面から大和勢力が入り込み、当地の意宇氏と協力して須佐氏を排除、意宇氏は国造を命じられる。意宇氏が編集した出雲国風土記に素戔嗚尊の記述がそっけないのはこのせいだという。また、出雲には十六(うっぷるい)湾、七類(しちるい)湾、加夜里(かやり)、安良波(あらは)比、辛(から)川、加賀羅、加安羅など朝鮮語由来、朝鮮地名由来の地名が多く見られることから、朝鮮半島とのつながりが深かった地域であるという。

三輪神社では、出雲、若狭一帯から琵琶湖沿岸を通って南下し大和に入った辰韓、新羅の勢力は三輪地方の都祁(つげ)に定着、三輪地方を本拠地とした。三輪山は朝鮮式山城であり神奈比山であるという学説を支持。三輪遺跡には多数のふいごや鉄の溶滓が発見されており、この地方の鉄鉱石をもとめてのことだったとする。出雲人はこのあと、東国へも進出、製鉄の技術と出雲特有の前方後方墳古墳をもたらした。東国の大己貴命、素戔嗚尊を祀る神社、氷川神社の多くは出雲系であり、つまり新羅系だと主張する。埼玉の金鑚(かなさな)神社はその名前に製鉄の痕跡を持つ。祭神は素戔嗚尊、東進は鉄鉱石を求めての旅だったとも言う。東進のルートには2つあり、信濃から東山道を経て上野、下野へと向かうルート、そして信濃路から甲州路入る線である。建御名方(タケミナカタ)神を祀る諏訪神社、古事記に記されているのは建御名方神が建御雷(タケミカヅチ)神に力比べに破れ諏訪に逃れたと。諏訪神社の御柱は踏鑪炉(たたら)の高殿4本柱の押し建て柱に起源があり、その柱のうち南の柱を神聖視、梁塵秘抄から南宮の本山は諏訪神社、中津宮は大垣の仲山金山毘古神社、稚き宮は上野市の敢国神社であると。タケミナカタのミナカタは南方だとして、鉄の神だという。

豊前、大分の宇佐八幡宮は「多くの幡を立てた祭祀様式に名付けられた」という学説を支持、鍛冶集団である辛嶋氏が奉る守護神だと主張。この集団には医術に長けた人々もいたため、のちに大和朝廷の庇護も得て、その後京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮と分祀され、全国の八幡神社の総元締めになっている。宇佐八幡宮がいつ神仏習合したかは明確ではないが日本の中では神仏習合の魁であった。崇仏派の蘇我氏は排仏派の物部氏と争うため、大神比義という人物を宇佐八幡宮に送り込み勢力を拡大しようとした。神社も神宮も朝鮮半島から日本列島にもたらされたもの、というのが本書の全体的な主張である。

これは前に読んだ「古代朝鮮と倭族」の記述とも合致するし、稲作の豊穣を祈るという神社の役割とも矛盾なく考えられる。神社と神道が日本古来、と考えると稲作をもたらした弥生人以前に日本に住んでいた縄文人の信仰に由来することになり、神社や神道の多くのしきたりと矛盾することが多い。いずれにしても純粋に弥生人がもたらしたというよりも、従来からあるアミニズム的な信仰、その後の仏教なども交わり合っている神仏習合も考えられるので、100%これ、と言うものでもないかと考えられるが、神社・神道は稲作文化と古代朝鮮由来というこの説、有力だと思う。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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