意思による楽観のための読書日記

歴史を考えるヒント 網野善彦 ****

この本は2010年にも読んでいるのだが、よくあることで読んだことを忘れていて再び読んだ。50ページほど読んだところで気が付いたが、最後まで再読してみた。

最近読んでいる司馬遼太郎の対談集でたびたび出てきたのは、「鎌倉幕府以前の日本とそれ以降では違う国のようだ」という司馬の発言。現在「日本的」と評価される文化はそのほとんどが室町時代に発展してきたもの、という話も出てきている。日本史の中での中世史が非常に重要という観点では、中世史を専門としていた網野善彦の著作は非常に気になる。後醍醐天皇を取り上げた「異形の王権」では、鎌倉幕府以降建武の新政の頃までに、それまでの大陸由来の文化が昇華され、日本にはなかった独自の文化として日本に根付いた。関西と関東、人々への仏教浸透、政府に年貢を召し上げられる農民に代表される百姓、被差別民、市場と貨幣など。歴史を語るうえで当たり前として使っているこうした言葉にも歴史と変遷があるということを、歴史家として網野善彦はこの本で解説してくれている。

「日本」という国名、天武天皇時代以前は「倭」と呼ばれていたが、対外的には701年大宝律令が制定された年に派遣された遣隋使の粟田真人が則天武后に「日本」からの使いである、と述べたと記録されているので、国名を定めたのはそれ以前である。「日本」を国名と定めたのは689年の浄御原令施行の時という可能性が高いという。600年ころから遣隋使が始まった時に、自分の国には国名もないし歴史書もない、そもそも国という概念や法律も租税も王権も、大君の正式名称もないのではないか、と時の大君であった推古や厩戸皇子が考えたのではないかと推測できる。先の浄御原令や8世紀の初頭に完成したとされる大宝律令、古事記、日本書紀、いずれも日本国の正当性を主張するためには最低限必要なことと当時の為政者たちは考えたはず。それにしても大陸から見て日出づる場所にある国なので「日の本」→「日本」というのは大国隋や唐という国から見たイメージで国名を定めたと考えられ、遣隋使、遣唐使が当時の中国皇帝に説明するために考えたことが明白である。だからといって日本国という名称を変更するべき、という話にはならない。また、この8世紀の時代の日本が支配していた地域は近畿から中国、四国、中部、関東、南東北、北九州まで。11世紀になるまでは南九州や北東北は自立していたと考えられ、沖縄、北海道は実質的には明治以降と考えられる。

「関東」という呼称は740年の続日本紀では伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)という、三つの関所の近畿から見て東側という意味で使われたのが最古の事例。足柄と碓氷峠より東を坂東と呼ぶこともあった。鎌倉幕府成立後は鎌倉政権が確立した支配地域を「関東」と使うようになる。その時代には三河、信濃、越後より東をさし、時には尾張や能登まで含めていた。この時代からは近畿から見て関東ではなく、東の政権が主張する関東地域という意味に変化してくる。だからその反対の「関西」が生まれるのは鎌倉時代以降となる。江戸時代には3つの関より西で大阪をさす言葉として上方という呼称も使われるが、近畿から見た「東国」もあいかわらず使われた。東国の反対の西国は西海道、現在の九州をさす言葉として使われたが、1221年承久の乱で北条氏率いる東軍が後鳥羽上皇の西軍に勝利した時点から変化し、京都に六波羅探題が設置され、管轄範囲を尾張、飛騨、加賀から西、となったため法令上もそこから西が西国、鎌倉幕府が直轄するのが東国となった。つまり東西に王権が二つ存在することになる。

「百姓」は農民だけではなく、政権が税を徴収する対象として農民、漁民、織物、鋳物、狩猟民などその他の職能をもった民をひっくるめて「百姓」から徴税するということにした。「五反百姓」という言葉があり、農民で五反以下になると税金を払ったうえで自活していけない、という意味でそれ以下の面積の田に分割するもののことを「田分けもの」と言った。

「被差別」の存在は東と西で大きく異なる。今でも存在する被差別問題は主に本州、四国、九州で本州の中でも近畿、中国、中部の西半分が主である。差別の根源は「ケガレ」の概念ではないかという。ケガレは狩猟に伴う食肉や死者を葬ること出産や怪我などで出血を伴う場合などがあるが、縄文文化ではこのようなケガレの概念がなく、弥生文化に見られる特徴である。日本列島全体がまだ縄文時代であった中に、徐々に朝鮮半島経由で北九州、列島西部から入ってきた弥生文化。二つの文化圏は、数世紀の間東西の偏在期間があったと考えられる。ケガレに対する対処の違いはその時代まで遡ると考えることができる。しかしケガレは中世までは差別とはつながってはいなかった。逆にケガレに対処できる人々は職能民の一種ととらえられ、天皇直轄となっていたこともあった。13世紀以降になるとケガレが穢れ、汚れと認識されるようになり差別が生まれてくる。差別が定着したのは江戸時代の士農工商エタヒニンと言われた時代。エタは、ヒニンはと呼ばれたが、西日本では皮を扱う「」、鉢を売る「鉢屋」、茶筅を売り歩く「茶筅」、加賀・能登・越中では「藤内」という呼称もあった。をさす「」は関東での被差別民呼称として使われた。

「市場」とはマーケット、中世には市庭と表記された。市場で取引される価格のことを相庭(相場)と呼んだ。「庭」は共同でなにかの作業をする場所で、狩猟は「狩庭」、漁業をするのは「網庭」、塩田のある「塩庭」、稲を収穫する「稲庭」、朝廷も本来は天皇が口頭で訴訟を裁決したり命令を伝達する場なので「朝庭」だった。売上金を別の場所に送金する代わりに為替処理をするのが「かわし文」→「替し」そして「為替」の文字は江戸時代から使われ、14世紀にはすでにサービスとして存在していた。

言葉にも歴史あり、である。2004年に亡くなった網野善彦、その主張は歴史家の間では主流とはなっていないが、一つ一つが頭に刺さるのはなぜだろう。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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