意思による楽観のための読書日記

カウントダウン・メルトダウン(下) 船橋洋一 *****

東日本大震災、未だに記憶は生々しい、と思っているが、その証言をまとめた本を読んでみて、こうした記録をとっておくことの重要性にあらためて気付かされる。政府や東電、原発関係者は都合の悪い記録を残さず、都合の良いものだけを取り上げようとしていることに気づくからである。

日米同盟で協力関係にあるはずのアメリカサイドから見た大震災、それは原子力事故対応だった。日本からもたらされる情報や依頼に疑心暗鬼になるフェーズもあり、3月15日に東電幹部が現場撤退を検討していると伝わったときには、在日米国人の全員撤退まで検討された。アメリカから見ると日本政府サイドの危機管理の最高責任者が誰なのかが不明であった。マレン統合参謀本部議長は次のような問題点を指摘した。1.日米間の情報共有が不十分 2.日本政府はあらゆる資源を使っていないようにみえる 3.取り組みが非戦略的で長期的視点に立っていない。それでもここで米軍家族撤退などという事態になれば日米同盟は崩壊すると懸念した米国政府と米軍幹部は、米国サイドでも冷静な状況判断が必要と考え、情報の入手と在日米人家族への伝達に努めた。

そんな時期に、放射能の恐怖を感じていた在日米軍家族の動揺を抑えるため、3月22日、ウイラード米国太平洋軍司令官は夫人を伴い横須賀基地を訪れた。そこでの演説から。1.米軍は日本に踏みとどまり「最後の勝利まで戦い抜く」 2.放射能汚染に過度に神経質になる必要はない 3.家族の心配は当然であり、希望者は本土に帰す。こうしたメッセージを横で聞いていた自衛隊のトップは、組織トップが明確な言葉で直接伝えることの重要性を強く感じた。

米国サイドが一番不安に感じたことは、日本政府のリーダーである菅総理にアドバイスを与える技術者トップが明確になっていないこと、そしてその時に対応している対策の根本をなす事故モデルが不明であることであった。原因は複合的である。当時の民主党政権と米国との距離感が自民党政権時より遠く感じられていたこと、菅総理のリーダーシップに不安感を持っていたこと、政府が対応を東電に任せてしまっているのではないかという不信感があったことなど。さらに、東電、政府、文科省、経産省それらを結ぶはずの保安院、原子力委員会、原子力安全委員会それぞれの情報が縦割りで伝えられ、判断も縦割りでしか行われていないからである。東電社内でさえ企画部、資材部、発電、配電、整備などの部署ごとの縦割り管理の弊害が見られていた。

政府内での対応と並行して、3月22日から25日の時点での「最悪の場合」シナリオが作成されていた。結果的に適応されなかったこのシナリオは次の通り。1.20キロの避難区域は当面据え置く。2.四号機の燃料プールが損壊した場合には50キロ圏内の住民を避難させ、70キロ以内の住民は屋内退避させる。3.他の燃料プールでも同様の事態となった場合には170キロ内は強制避難、250キロは自主避難をさせる。4.最終手段としては原子炉上から1100トンのスラリー遮断(石棺)処理を行う。この事態になると、東京の首都機能は関西に移動、事実上の東日本放棄となってしまう。四号機の燃料プールの水がなくなる可能性はこの時点ではまだまだ大きかったのであり、三号機へのコンクリート注入器による水の注入が歴史上未曾有の大災害への分岐点であった。

福島第一原発事故は日本の原子力技術の欠陥を露わにした。そしてそれは日本のテクノロジー全体の欠陥でもあった。個々には優れた技術があるのに、それらを連動して全体の利益にするための活用方法を見出す視点がない。そして、技術が破綻した場合の別の技術で克服する技術の安全弁が機能していない。日本の技術の優秀性を信じていた為政者や行政官が、これほどまでに日本技術の欠陥を見せつけられたことは敗戦後初めてであった。SPEEDIと呼ばれる放射性物質拡散シミュレーションデータの活用がその象徴であった。情報はあったのに、保安院、文科省、安全委員会はSPEEDIの試算結果を避難計画に活用しようとしなかった。「不確実な情報開示で住民を不安に陥れられない」という理由が後に示されたが、それよりもそのような情報活用により自部署の責任が後に問われることを恐れた。文科省は省内での検討用資料と考え、保安院が活用責任部署と考えた。保安院と原子力安全委員会はシミュレーション結果はあくまでシミュレーションであり、避難計画には使えないと考えた。結果として、SPEEDI情報の評価は共有されず、当初官邸にも知らされることはなかった。

本書は、福島第一原発事故の運が悪かったことと良かったことを次のようにまとめている。まず悪い方。1.地震、津波、原発事故の複合災害であった 2.4つの原子炉の全電源が失われた。3.4つの炉が同じ方向に並び間隔も狭かったため連鎖メルトダウン危機につながった 3.東電会長、社長が共に出張中であった 4.放射能が大量に漏れ出した3月15日に限り北北西に吹き雨が降って雪も降ったため放射能が地上に落下した。一方、運が良かった点は次の通り。1.平日日中に地震は起こったため従業員が多数プラント内にいた、これは8X5/24X7=24%の確率である。 2.風向きが11日から14日まで太平洋に向かって吹いた。 3.四号機の燃料プールに水が残った。 4.地震発生後の30分で株式市場が閉まったため緊急対応を行う余裕ができた。 5.太平洋を超えては放射能が広がらなかった。6.福島第二原子力発電所でも同様の規模の事故になる可能性もあったが増田所長の機敏な対応で大事に至らなかった。

また、当時のリーダーが菅直人であったことの幸不幸を次のように整理している。不幸は、自らが当事者として現場介入をすることで混乱を拡大させ、重要判断の機会を失した。大局観にかけていた。官僚をうまく使えなかった。報告者を怒鳴りつけ、情報が上がらなくなっていった。一方で、住民全員退避という判断は自民党政府ではその後の責任を考えてしまいできなかった可能性がある。日常モードから有事モードへの切り替えがすっぱりとできたことは、腹が座っていた、よくわかっていなかったのかもしれないが、菅総理だったことのメリットだったと。プラント内に踏みとどまり対応する東電社員に最後まで踏みとどまって頑張って欲しい、という「要請」をするということは、どうしようもない場合には「死んでくれ」というのに等しい。その法律的根拠はない。3月15日に東電が撤退を検討していた時に、「最後まで踏みとどまれ」と命じたことで、当時の官邸政治家は菅総理の評価をするという。

まさに、紙一重、本当の「不幸中の幸い」がそこにはあったこと、今となって国民は知るのである。多くの報告書が存在する東日本大震災ならびに福島第一原発事故、本書はドキュメンタリー性で事故関係書の中でも必読書といえると思う。

 


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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