新年早々、歩こうとしないばーばに苛立ち、叩いてしまった。
昼間は、ポータブルは使用せず、トイレに歩いて行くことにしている。
しかし、今日のように一日中家にいる日は、夜間と同じように、ベッドの上でリハパンを下ろし、汚れたパッドだけゴミ箱に入れようとする。
ばーばは夜間も、立ち上がってポータブルに腰掛けるのが億劫なので、ベッド上でパッドだけ交換している。
だから、ベッドに敷いているおねしょシーツは尿で濡れ、濡れて冷たいので、その上にタオルや脱いだ服を乗せている。
そんなに立ち上がることができないのなら、パッドが濡れていても、そのまま寝て入ればいいのに、それは絶対しない。
毎日ベッドのシーツは尿汚染し、濡れてるところに乗せてあるタオルや服も洗濯する必要がある。
毎朝、仕事に行く前に、それらを全部洗濯している。
夜間はやむを得ないとしても、せめて、昼間だけはトイレに歩いて行ってと、何度も何度も言っているのに。
歩けないわけではない。
確かに、寝て起きたばかりは、足が痛く歩きづらいのはわかる。
でも、でも、歩いてトイレに行って欲しい。
ばーばの独り言は、ばーばの本音。
「足が痛いで、歩いてトイレなんか行けんわ。」
ばーばが正しいんだろう。
歩けなくなっているから、昼間もポータブルを使えるようにしておくべきなんだろう。
どうせポータブルは使わずに、ベッドの上でパッドを替えるだけなんだけど。
歩けなくなることを、受け入れなければならない。
でもそれは、大腿骨骨折など機能的に歩くことが困難になった場合。
それなら、素直に受け入れることができる。
めんどくさいから、トイレに行かない。
歩きたくないから、ベッドの上でパッドだけ替える。
その行為が、娘に負担をかけていることなんて、全く考えずにいる母親。
実の親だからこそ、許せないこともある。
ばーばが、これから先どんどん落ちていき、どんどん手がかかるようになっても、優しく接するにはどうしたらいいんだろう?
答えは簡単。
私が介護しなければいい。
それが一番いい。
前回の記事で、今年の目標を「継続」と書いた。
一番始めに書いたのは、仕事の「継続」。
自分自身を見つめ直して導き出した答え。
ガラにもなく、苦手な介護に専念しようなんて思ったのは間違いだった。
私が私らしくあるためには、仕事が必要。
ばーばの施設費用が高額になっても、私が働いて稼げばいい。
幸い、今の職場は、フルタイムへの切り替えも可能。
60歳定年まで、後7年。
働き続けようと思う。
介護は二の次で。