ふと、孔子のあの有名な言葉が思い出されたものです、、
吾十有五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして惑はず
五十にして天命を知る
六十にして耳順(したが)ふ
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず
ま、生きる指針としてこれを手本とする場合も多くあるようですが、、
そう言えばと、、OSHOが老子を語った、TAOというシリーズでも
孔子の話はちょいちょい取り上げられていたなと、、
というのも、、孔子と老子は同じ時代に生きた記録があるとかなんとか、、
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その中で、、孔子が老子に一度だけ会ったときのエピソードがとても興味深いものだった、、
全国に名が知られるほど大天才である孔子と、ただの町の老いぼれ老子、、
知識を高め、論理を研ぎ澄ませることで、
成し遂げるべき何か、どこかへ向かおうとする、あるいは向かわせようとする孔子に対し、、
すでに辿り着いていた老子、、
何にもならず、どこへも行かずに、、ただそこにいて、
ごくごく自然に明け渡し、広大な自由に彼は住まうのだった、、
道徳観に関して尋ねた孔子は、、
老子に笑い飛ばされた、、
この瞬間、、一人の天才に、、とてもつもない恐怖が湧き起こったという、、、
多くの大帝に謁見してさえも臆することなく堂々としていた孔子が、、
一人の老いぼれを前に震えが止まらなくなったと言う、、
彼は恐れたのかもしれない、、
これまで 「自分」 が積み上げて来た、知識、名誉、地位が
まったくのがらくたに過ぎないというその香りを老子から感じ取ったためか、、
あるいは、自分が拠り所としてやまないそれら堅固な象徴の一切に、
まったくしがみつかない一人の老いぼれの、「そのまま」 の姿に、、
冷や汗のにじむ我らの師匠を目の当たりにした弟子たちが孔子に歩み寄ると、、
孔子はこう言ったという、、
「ちょっと待ってくれ、自分を取り戻させておくれ、この男は危険だ」
ま、この話が本当かどうかはさて置き、、
冒頭の孔子の言葉のようなものを仮に老子が残したとしたら、、
と今回妙に興味が湧いてきた私が、、( *´艸`)
老子に代わって (笑) 語るとしたら、、こんな感じかなーと、、( *´艸`)
吾 今ここにて 吾を忘れる
「自分」 の都合の一切を手放し、ただ今ここに現れた流れ、出会いの中に自らを差し出し、
それと共に生きる、今と手を繋ぐ生き方、、真実に生きる道、、
禅は、老子的な生き方を体系化した、、人類の宝とかなんとか、、
ま、「宝」 という表現は、OSHOの受け売りだけれど、、
個人的にも、もし、人生の乗り物、あるいは衣として、必要なものを一つだけあげるとしたら、、
私も迷わず、「禅」 と答えるでしょうね、、(●‘∀‘●)ノ"
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ