よく、悟り系のメッセージで見られる、、
無意識、あるいは、無意識的、、などというポインター、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
これは何も、昏睡状態というような意味ではなく、、
別の言い方をすれば、習慣的、または、観念的とも言えるでしょうか、、
つまるところが、私たちは、過去 (記憶) をベースにした「思い込み」 を
物事や事象に当てはめながら生きている、というわけです、、
例えば、、目の前に、水をそそげるクリアな器があれば、、
無意識的に、、それを、「グラス」 だと認識しますし、、
空から水が落ちてくれば、、「雨」 だと反射的に、判断する、、
周囲の人、身の回りの物、、絶え間なく起き続ける日常的な現象に対して、、
名前を付け、それらを分割し、区切り、固定化し、、
それがそうであると 「決め付け」 た思考を頼りに生きているということです、、
もちろん、この思考があることで、実用上、便利な側面は数知れず、
社会生活においては、この上ない恩恵があるのも事実です、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
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しかし、こと求道においては、、
あらゆる過去の産物、、記憶によって当てはめられた 「思い込み」 の数々が、、
本質的な全体性の上にかぶさり、、
本当のリアリティを見えなくしている、というのも実際のところです、、
ですから、目覚めのレッスンの一つとして、、
過去に意識的であることで、習慣的な思考感覚の無意識的な反射を俯瞰し、
その動きや働きに少しずつ気づけるようになって来ます、、
というより、これを体系化したのが、、禅の修行なわけですが、、
要は、日常の場面場面で、、気づきを向けながら行為をすることで、、
初めのうちは、、一生懸命気づいていようとする努力の段階もそれなりにありながら、、
徐々に、、気づきそれ自体が目覚めて来ると、、
身体や思考が、「習慣」 を頼りにしようと無意識的に動き始める、まさにその瞬間、、
今度は、、気づきが自然にその反応を察知し、、
意識的な領域の側に私たちを留まらせるという効果を発揮してくれたりするものです、、
その視点で在ること、それと共に生きることを、、今に在る、今を生きると言います、、(●‘∀‘●)ノ"
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ