不意に思い出したある禅の逸話、、
詳しいところまではうろ覚えですが、アウトラインはこんな感じです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
というわけで、どうぞ、、むかーしむかしのことじゃった、、(▰˘◡˘▰)
あるとき、禅師と弟子が外出中、、
ある女性が川の前で困った様子で立っていた、、
聞けば、大雨のせいで川にかかっていた橋が流されてしまい、
向こう岸まで渡れずに困っているとのこと、、
すると、それを聞いた禅師は、、女性をひょいと担いで川を渡り始めた、、
驚いたのは弟子、、仏道を歩むものが女性に触れるとは、、
川を渡り終えると女性を降ろし、禅師は再びスタスタと歩き出した、、
弟子もその後を追うが、、未だに納得がいかない、、それとも何か理由があったのだろうか、、
と師匠の背中を見ながら悶々と考えが巡る、、Oo。。( ̄¬ ̄*)
そして、ついに、、弟子は師匠に思い切って尋ねてみることにした、、
「師匠、、なぜ、あなたは先ほど、あの女性を担いで川を渡ったのですか、、
女性に触れるなど、、我々、仏道を歩む者にはもってのほかのはずです、、
何か理由があってのことだったのでしょうか、、どうか、教えてください!!」
すると、禅師は、、こう言った、、
「お前は、まだ (あの女性を) 担いでおるのか
(今は、今が現れているというのに、、) 」
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禅の修行は、、この移り変わる相対の世界にあって、、
それと共に流れること、あるいは、それと出会うこと、、
つまりは、今 (真実) を生きる体感を養うものであると言って良いでしょう、、
禅の修行、あるいは、実践をしたことのある人なら分かるはずですが、、
禅では、目の前の行為行動の中に注意を向け、そこだけにひたすらに取り組みます、、
細かすぎる修行体系に、何のためにこれをするのか、、これをして本当悟れるのか、、
などと言った 「異論 (抵抗) 」 に足をもつれさせることなく、、
それらを手放し、、ただ今に在ります、、
食べる、唱える、坐る、歩く、掃除をする、歯を磨く、顔を洗う、、
ただその時の行為に溶け去るのです、、
あれこれの思考のおしゃべりが起きてもそれを見守り、
相手にせずに (囚われることなく) それを捨て去る、、
自分が生きているのは、、目の前の出会い、、今この瞬間なのだというところから揺らぎません、、
この修行のエッセンスが分かれば、、もはや禅寺は必要なくなります、、
なぜなら、日常のすべて、あらゆる場面が、、今を生きる実践の場になるからです、、(●‘∀‘●)ノ"
私たちの自我、恐れ故の防衛性から来る、所有の感覚は、、
ネガティヴな思い出や感情などどんなものでも所有したがります、、
あるいは、自分が安定するためにと、あらゆる足場、信条、観念にしがみつこうとするのです、、
そうした反応自体は自然なものなので 「悪い」 というわけではありませんが、、
禅の人たちは、それら反応がやって来る度に、それに気づき、、(ΦωΦ)
それに囚われることなく、その都度 「降ろす」、、
そうしたクリアな体感で今に出会い続けること、、これを、禅と言うのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ