今にくつろぐ、、
このポインターはかつて個人的にはよく使った言葉です、、
ティーチャー、ジョーンさんは、、さらに一歩踏み込んで、、
直接性にくつろぐ、、などと言います、、
さて、くつろぐことを勧めるとどうしても、
それをしよう!それに近付こう!それになろう!とするのが一般的な取り組み方であるわけですが、、
実は、、そうしたやり方では、これらポインターが真に指し示すところを外しかねないというのも
実際のところかと思います、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
というわけで、くつろぐためには、、
くつろぐ必要を手放すこと、
あるいは、くつろぎを探そうとはしないこと、くつろぎを求めようともしないこと、、
などとも言えるかもしれません、、
実際のところ、「くつろごうとする」 ために、そこから離れてしまっているというパラドックスが
エネルギー的に起きているとも見ることができるわけです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
------------------------------------------------------------------------------------
というわけで、くつろごうとする代わりに、
今現れている状況をくつろげる状態に変えようとする代わりに、、
外側の移り変わるダンスを見つめながら、それにただ気づきを向けながら、、
それがあってはいけない、もっとこうであってほしいなどといった批判や願望といった、
「抵抗」 の様相が感じられた場合には、それにも気づき、それを手放す、、
即ち、、今起きていることから離れようとすることなく、進んでその出来事、状況、出会いの中に
自らを差し出すということができるかどうかを試してみると良いでしょう、、
そこから逃げよう、それを作り変えようなどという奔走こそが、
くつろぎとは真逆の様相を呈し、くつろぐことを邪魔しているエネルギーとも言えるでしょう、、
実際、そこにあるのは、
自我性が自らの 「都合」 にとって不快であるために起こす防衛性の反射であって、
短絡的なそうした動きには、気づけば容易に手放せるということを私たちは見出すことができます、、
そして私たちは徐々に知り始めます、、
くつろぎは、今とは違った状況や出来事にあるのではなく、、
あるいは、外側の状況によって左右されるわけでもなく、
それは常にいつも在るということ、、まったくこのままの、あらゆることに気づいているこの不動性、
即ち、「ここ」 に在るということを、、
というわけで、やはりこれに尽きますね、、(●‘∀‘●)ノ"
晴れて良し 曇りても良し 富士の山
もとの姿は 変わらざりけり
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ