この季節は周辺の田んぼに水が入り、
時間帯によっては、カエルの大合唱が聞こえるので、
気づきの瞑想などをやっているととても気持ちがいいです、、( *´艸`)
というわけで、ブログを書く際に、、
「手放す」 という言葉をそれなりに使ったりするものですが、、
「手放す」 というのは一体どういうことなのか、あるいは、どうすれば 「手放せる」 のか、、
といったことを、中には疑問に思う人もいるかもしれません、、
ま、ハリー的に言えば、、
「手放す」 ことと、「気づく」 ことは、ほぼ同義であると言って良いでしょうし、、
さらに言えば、、「気づいている」 とき、自然と、「手放し」 は起きているとも言えるでしょう、、
ですから、手放そう!手放さなければ!手放せない私はまだまだだ!
などと言った 「抵抗」 が起きているときは、、
往々にして、自我性が、「手放し」 を拒否し、エネルギー的にはまさに真逆の様相、、
収縮や執着が起きていると見ることもできるでしょう、、Oo。。( ̄¬ ̄*)
自我性には 「恐れ」 故の所有性があるために、どんな不快なものであっても 「手放す」 ことを嫌い、
思考でそれらに実体性を持たせつつ、自ら生み出した幻影にしがみ付こうとするといったところです、、
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ですから、そうした様子、、抵抗や収縮、執着のエネルギーを感じられたとしたら、、
さらには、そのエネルギーが思考によって、何らかの 「形」 を持とうとストーリーの世界に
ハマり出す 「香り」 を感じられたとしたら、、
私たちは、すでに、目覚めのカギを手にしていることになります、、
つまり、そうした様相を 「感じる」 というのは、「気づき」 が自然とそれを察知するということに他ならず、、
気づくことにより、幻影が幻影であることが見破られ、それらの実体性は確実にエネルギーを弱めます、、
あるいは、その 「気づき」 自体の効果によって、
自我性や思考の動きがくつろぎ、「解放」 されるといった言い方もできるかもしれません、、
というわけで、ティーチャー、ジョーンさんの本に参照されていた、
ある禅尼さんの言葉です、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
気づきを保っているとき、意識しているかどうかに関係なく、癒しが起こっています。
閉ざされていた扉が開き始めます。扉が開くと、現在が絶対だということ、
そして、ある意味では宇宙全体がこの瞬間、毎秒新たに始まっているということが分かります。
その単純な気づきの瞬間の中に生の癒しはあります。
無邪気でいるとき、癒しは常にまさにここにあるのです。 (シャーロット・ジョーコー・ベック)
※というわけで、ここしばらくは、カエルちゃんたちと気づきの海でレッツダンスです!(●‘∀‘●)ノ"
今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ