スピリチュアルな探求の旅において、
序盤は往々にして、私たちは、「どこか」 を求めます、、
本の中の 「どこか」
覚者のいる 「どこか」
聖人ゆかりの 「どこか」
次元?を超えた 「どこか」
非日常的な 「どこか」
「ここ」 でなはない 「どこか」
こうした、たくさんの 「どこか」 を経験して来ると、ある時ふと気づくことがあるかもしれません、、
それを恩寵などという言葉で表現する人たちもいますが、、
要は、、「どこか」 に行けば、一時的には気分が高揚し、「何か」 を 「得た」 気分になるものの、、
結局は時間が過ぎれば、また違う 「どこか」 を求め出しているような気がする、、
そして、また次の 「どこか」 に出かけて行っては、
今度こそはそういうことかと 「分かった」 気がしたはずなのに、、気付けばまた初めからのやり直し、、
どこか、どこか、どこか、、
一体どこまで行ったら辿り着けるのか、、どこへ行ったら見つかるのだろう、、
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このようなとき、、ある意味で、、求道においては、実に好機であると言って良いでしょう、、
というのも、、「どこか」 の限界、あるいは、まやかしに気づき始めているからであって、、
探す場所は 「どこか」 ではないかも知れないということを知ってこそ、
その人の求道は最終段階を迎える 「場所」 へといざなわれるとも言えるからです、、
たくさんの 「どこか」 が辿り着く場所は、、
まさにこの瞬間も自分が居るその場所、一度もそこから離れたことがない唯一の場所、、
ですから、多くのガイドポインターが、、
今ここ、即今目前、Here & Now、Now & Here、、などと言い続けているのはそのためで、、
私たちは初めから 「真実」 に居た、ずっと 「真実であった」 ということを伝えているのです、、
よって、最もダイレクトな求道、あるいは、求道の最終は、
どこにも行かない、「ここ」 にいることであって、、
そこはいつも、「どこか」 で見つからなかったものが往々にして見つかる場所でもあるのです、、
どこに行けば良いか迷ったときは、「ここ」 に居てください、、
特別なことというよりは、目の前の日常的な取り組みに意識を向け、
真実が何かを探そうとせず、見つけようとも、手に入れようともせずに、、
ただ今ここのリアリティに出会ってみるとき、概念や信念で起きていることを 「枠」 にはめようとしない時、
「枠」 など何も本当はなかったということ、、開かれているということ、、
私のティーチャーがよく言う、、無境界性、直接性、無根拠性、、
白隠禅師で言うところの、、三昧無碍 (むげ) の空 (そら) 広く、、
といったところの、「何か」 が現れるかもしれません、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ