多くの求道に見られる、、「どこか」 に 「求める」 というアプローチ、、
このエネルギーの背景には、「どこか」 に 「辿り着くこと」 で、
「達した私」、「分かっている私」、「経験した私」 をこしらえようとする、
思考感覚の欠乏感、あるいは、さらに遡れば、自我性の恐れがあると見ることができたりもします、、
ですから、往々にして、求めて求めて、求め続けて、、
悟りの会に参加し、瞑想三昧し、禅寺に行き、、それでも見つからない場合は海を渡り、、
世界各所のパワースポット、、インド、ヒマラヤの聖地、、聖人ゆかりの場所を巡り巡る、、
それでも 「辿り着かない」 場合は、、宇宙の彼方、、どこぞの高次元?へ上昇して、、
なんとかの意識体との交信を試みたりしたりなんだりに明け暮れてしまいがちですが、、
こうしたスタンスは、、何よりの真実を外しているエネルギー的様相ですから、、
逆に 「辿り着くこと」 を難しくしていると言っても良いでしょう、、
本当に求めている 「答え」 は、、実際の所、どこにも行かないとき、、
初めからすでにそこに居ること、ずっとそれで在ったことを再発見することによって見つけられるものなわけですから、、
どこでその奔走、迷走の正体に気づき、それに終止符を打つかがポイントになってくるとも言えるでしょう、、
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ある禅寺には、こういう文字が刻まれていたりします、、
吾唯足知 (われ ただ たるを しる)
いわゆる、、足るを知る、、というやつで、、
もとは老子の言葉のようですが、、
個人的には、、この 「唯」 というところに禅の香りが感じられるものです、、(▰˘◡˘▰)
ただひたすらに 「足知」 に三昧致す、、(。+・`ω・´)キリッ
「足るを知る」 ことに留まりたくない、上記のような奔走性、今ここ外しに意識的に在り、
そうした 「求める」 動きを手放し、、今ここに根差し続けるとき、、
探し物は見つかります、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ