「わけ」も分からない | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

というわけで、前回、

 

突然ご登場いただいた、とある先生 (笑) のおかげで、

 

・・・・v( ̄ー ̄*)

 

 

あらゆる二元対立が幻想にすぎない、

 

思考の一面的解釈や、自我の都合で以てそのように 「思っている」 だけ、「思わされている」 だけ、、

 

ということが徐々に明るみになって来つつあります、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

 

 

 

そう言えばと思い出したのが、、

 

白隠禅師が遺したこの言葉、、因果一如 (いんがいちにょ) の門開け、、

 

 

原因も、結果も分けることはできないもの、本来分かり得ないものだという地平に立った時の、

 

非二元性、受容性の体感を表したポインターのように感じられます、、富士山

 

 

 

スピリチュアルでは、しきりに、、

 

「原因があっての結果だ」 たという話が強調される場面はよく見られる話ですが、、

 

 

そこには、、原因だと 「思っている」 思考があるだけ、、結果だと 「思い込んでいる」 信念があるだけ、、

 

 

 

と言ったところの思考感覚をしかと見抜くことが、二元性の囚われや、

 

限定化された世界 (不自由さ) から抜け出る上ではとても大切になって来ることのように思います、、虹

 

 

 

って、こんなことを書くと昨日の先生がまた現れそうです、、笑

 

 

 

いいかい?自由と不自由の定義もまた分かり得ない、、

 

自我が、その 「恐れ」 故に不自由だと主張してやまないことも、、

 

自由でないという根拠にはならない、、これが自由、これが不自由だという 「自分」 の中での、

 

決まり事や枠こそが、、不自由な様相の根源とも言えるかもしれないね、、

 

 

いいかい、、本当の自由とは、不自由さも含む体感のことだ、、

 

不自由であることを受け入れる、そのまま不自由さの中に留まり続ける、、

 

不自由さに対する二元的な抵抗を手放すとき、、不自由さを否定せずにそれと手を繋ぐとき、、

 

 

門は開かれる、、( ̄ー ̄)ノドア

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ