自我は、「恐れ」 故の所有性のために、、
あらゆるものにしがみ付こうとするのがまさにそのプログラム上の性質であると言えるでしょう、、
一般的に 「負」 とされるものにまで、自らの防衛のためということで、
(以後、同じようなことが起きた時は真っ先にそれを避け、そこから離れるようにと、)
観念の中にその際の 「反応」 を蓄積してしまうというところが少々やっかいなところであるとは言えるかもしれません、、Oo。。( ̄¬ ̄*)
というのも、、そうした、過去の産物というのは、、頼りになる側面も確かにあることは疑えませんが、、
毎瞬毎瞬、その時の 「あるがまま」 の作用によって新たに起きている、今ここのダンスにおいては、
やはり、その時の、「一所」 懸命、一期一会で向き合うことこそが、
何よりの的を射たアプローチになると言えるからです、、
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というわけで、過去の 「負」 の痕跡が、、思考や感情に乗って意識の中に漂ってきたときは、、
意識が瞬間それに囚われ (魅了され)、
過去の場面や反応がすぐさまフラッシュバックしたりするというのも、程度の差は様々とは言え誰しも起こり得る話です、、
実際、そうした無意識的な反射が、、社会生活上において、大きな足かせになるということもある話で、、
あまりにそうしたエネルギーが強大な場合は専門のセラピーなどが、感情やトラウマの解放への大きなステップにもなることでしょう、、
ま、私はそうした分野は専門ではありませんので、どちらかというと悟り系ということで書かせてもらうと、、
冒頭でも取り上げた、自我の所有性に端を発した、「収縮」 を解放する方法として、、
やはり、その 「収縮」 の動き、、現象や記憶を 「個人の物」 として所有しようとする傾向に、
まずは気づくということが何よりも大切になって来ます、、
気づくという領域に意識が移行することで、そうした 「収縮性」 との間にスペースを作ってくれるとも言え、
故に、それとの自己同化の緩和を為してくれるというわけです、、(。+・`ω・´)キリッ
そのエネルギーに引きずられそうになる場合でも、引きずられまいとして躍起になるよりは、、
そのエネルギーの様子をただ見つめ、、引きずり込もうとする様子に抵抗せずに見つめ続けることが大切です、、
もちろん、時には、そうした 「見つめる」 ことができるようになった場合でも、、
「見つめることができるようになった自分」 という感覚を新たに所有する動きにも意識的である必要があります、、
さて、そうして、気づくということから始まる、「ただ在る」 ということに留まる (還る) とき、、
エネルギー的には、、「許し」、、先日紹介した、禅尼の言葉にもあったように、「癒し」 が起き始めます、、
積極的に許そうとする必要はなく、、ただ 「在る」 というシンプルさが自然とそれを起こしてくれるのです、、
というのも、「在る」 というのは、「収縮」 とは全く真逆の 「解放性」 をその性質としているからです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ