思考、、
物事に意味や名前を付け、分割し、枠にはめ、固定化する、、
悟り系ではしばしば、、分離の道具と言われる働き、、
であると同時に、、思考には、、
その 「創作した分離の産物」 を私たちに 「信じ込ませる力」 があると言って良いでしょう、、
これは、自我性の 「恐れ」 に反応するからこそのリアル感故に、という説明もできるでしょうし、
あるいは、これまでの観念的な蓄積 (成長の過程で 「正しい」 と思い込んできたデータ) による、
半ば無意識的、反射的な反応故、、などという説明もできますが、、φ(.. )
大切なのは、、思考による 「働き」 が起きているとき、、
即ち、、私たちを 「信じ込ませようする力」 が思考の作り出した世界に住まわせようという動きに際して、、
それをしっかりと 「見る」 ということ、それに 「気づいている」 ということです、、(。+・`ω・´)キリッ
もちろん、これ自体が 「悪い」 働きだから、、
思考を止めよう、思考を消そう、思考を超越しよう、、という話しではなく、
実用上の範囲で、自然と起こるそうした働きの恩恵、あるいは利便性はこの上ないということを承知の上で、、
思考が、これ以上にない説得力を持って、
私たちをそうした 「限定的なストーリー」 の中を生きる 「個人」 であるという風に誘い込もうとするときは、、
求道においても、あるいは、心理的な平和のためにも、、
その誘惑を断ち切る力、それを信じない力、、即ち、、気づきの力が必要になると言えるでしょう、、
さて、このように書くと、、
さも、思考と気づきを戦わそうなどという誤解も生じ得るかもしれませんので、、
敢えて言うならば、、これは、思考に対する好戦的な様相ではなく、、
むしろ、思考に対する親密さ、、受容性の在り様であると言えましょう、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ