禅には、こういう言葉があります、、
私が道に入る前、川は川であり、山は山だった
その道をさらに深く進むと、私は混乱してしまった
川はいまやもう川のようではなく
山ももう山のようではなかった
何もかもめちゃくちゃにひっくり返ってしまった
それが、私が終点に着いて道が完結した時には、
再び川は川になり、山は山になった
前回の色即是空、空即是色の日本語版といった文章ですが、、
私たちは、生まれてこの方、、物事を 「分け」 ながら成長して来ました、、
これは、思考機能のブログラムが人間種に特異に備わっているからであるという見方もできるものですが、、
この思考と呼ばれる働きがあるが故、、
私たちは、、リンゴとオレンジ、山と川、父と母、自分と他人を区別し、、
さらには、「自我性」 と私がまま言うところの、
個人的な、「恐れ」 や 「都合」 を優先させるエネルギーの影響もあり、
自分にとっての快不快、幸不幸、善悪、好き嫌い、敵味方、、などというように、、
「分離」 であることを何の疑いもなく、あるいは、「分けること」、「何かを知ること」 というのをこの瞬間もしながら過ごしていると言って良いでしょう、、
けれども、、私たちの中には、、
この世界は何なのか、自分とは何なのか、人生の意味は一体何か、何のために生きるのか、、
といった問いを人生の中で、持つ人たちがいます、、
経路は様々ではあるものの、、真実を知りたい!といったその自然な発露を、
私はしばしば、「求道」 という言葉で表したりするものです、、
というわけで、真実というものを求め、探し始めるとき、、一番大切なのは、、
ある意味で、、「自分が信じているもの」 に頼らないこと、それにすがらないことです、、
というのも、、求道ということに限って言えば、、
「自分が信じているもの」 の一切が何一つ正しくはないからです、、
・・・・・(。´・ω・)?
実際のところ、、目の前にある、「コップ」 ひとつですら、、
究極的には、、「コップ」 ではないからです、、
・・・・・(。´・ω・)?
「コップ」 であると 「思っている」 思考があるから、
それが 「コップ」 であるというレッテル、固定化、限定化が起きているだけで、、
そこには、、「コップ」 という実体あるものは、存在していません、、
別の言い方をすれば、、「コップ」 と 「コップ以外」 を分ける境界線こそ、
思考が生み出しているに他ならない、「見かけ上」 の分割線であるわけです、、
------------------------------------------------------------------------------------
さて、ここで冒頭の言葉に戻ります、、
こうした分離の幻想、、思考や観念、概念や定義によって閉じ込められていた、、
分離性のエネルギーが瞬間取り払われると、、
無分別性といったところの、この世界の本来の姿 (空) が現れます、、
※人によって、この際のエネルギーの解放性は様々です、、劇的であろうとなかろうと何ら大差はありませんので、その体験自体 (記憶の一場面) に囚われることがないようにしてください、、
釈迦はこの際の気づきを、、無分別智 (むふんべっち) とネーミングしたそうですが、、
つまりが、、すべてが 「分けられない」 「分かり得ない」 という認識です、、
ここにおいて、、冒頭、、山は山のようではなく、川は川のようではなくなった、、となるわけですが、、
この気づきは、、シンプルである一方、、混乱につながるのも実際ある話です、、
というのも、、、「思考」 ベースで生きていた私たちの意識が、、
「分けること」 「知ること」 という機能を奪われてしまっては、、もはやどうしていいか分からないからです、、
そのまま混乱が、「恐れ」 へと結びつき、、
この 「体験」 は 「恐ろしいもの」 だ、「虚無的なもの」 だ、などといった、
思考の限定化が、、とりあえずでき得る限りの 「抵抗」 をしたりもしますが、、
この不安定感にも流されることなく、、ただそのままで在るということに明け渡すとき、、
徐々にその体感は安定を見せてきます、、
そうすると、これまで見ていたものと同じ景色が、、
「分かり得ない」、「分けられ得ない」 ものであるとは言いながら、、再びその 「色」 を取り戻します、、
それは、以前よりも、鮮やかな色合いだったりもするものです、、
そう言えば、、以前お世話になった溝口あゆかさんが、、この時の様子をしみじみと表現されていた言葉が印象的です、、
「緑がもっと緑に見えて」
・・・・
ま、長くなってきたので今日はこの辺りにしておきます、、m(__)m
禅的にはもうひと段階続きがありますが、、それはまた今度にいたします、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ