悟りはここに無ければどこにもない | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

鈴木俊隆禅師の逸話より、、ひらめき電球

 

 

修行者が禅師に、自分が驚くべき広がりの中に溶解してしまった経験について、語りました。

 

禅師曰く、、「そう、それを悟りと呼ぶことはできるかもしれない」

 

 

そしてこう続けました、、「しかし、忘れてしまうに限る。ところで、最近調子はどうだい?」

 

 

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この逸話を目にして、、やはりな、、と思ったハリーでありました、、拍手

 

本当に悟りを知り、その道へのガイドを担当する者は、、

 

 

求道者が、、「悟りの経験」 に取り憑かれるのをいなします、、

 

 

というのも、「経験」 を語る時点で、、それはもはや、記憶 (思考) の断片であって、、

 

今ここから離れた、ストーリー上の産物になってしまっているからです、、注意

 

 

たとえそれが、どんな気を付けて、注意深く、事細かにその時の様子を言い表したものであったしても、、

 

「虚構」 の域を出ません、、

 

 

 

こと、禅においては、、「悟りの経験」 をことさらに語り出す修行者がいたとして、、

 

師匠はおそらくこう言うでしょう、、「さて、今日の修行 (日課) を始められよ」

 

 

鈴木禅師のように真実が何かを知っている指導者こそ、、

 

必ずや、求道者を 「今ここ」 に連れ戻します、、カエル

 

 

 

悟りは、、「記憶」 の中になどない、、

 

悟りは、今ここ以外のものであることは一度たりともあり得ない、、

 

さぁ、、今ここ (真実) を生きるのだ、、と、、

 

 

 

 

というわけで、、禅は、、ある意味で、「悟り」 を捨て去るアプローチです、、秘密

 

私に禅を教えてくれた禅師は、、 (くう) をも空じよ!!という言葉で禅のスタンスを指し示してくれました、、

 

 

って、以前も書いたことがあったかと思いますが、、

 

釈迦の 「悟り」 を捨てちゃう時点で、禅がもはや仏教かどうかも怪しいって話ですが、、(;'∀')

 

 

 

彼らは知っているのです、、「悟り」 を持ち運ぶことに本当の悟りはない、、

 

今ここを生きること以外に、、真実 (悟り) など 「どこに」 もないのだと、、完了

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ