「今」 に盲目で居ることは、本来これしかないリアリティを前に、
目をつぶっているようなもので、、仏教ではこれを、迷い状態ということで、「明かりが無い」 と書いて、
「無明 (むみょう) 」 という言葉で伝えられているわけですが、、
一方で、、昨日のような、瞑想などの取り組みの効果に伴って、、
あらゆる 「どこか」 を手放し、「今に在る」 ということに立ち還ると、、
自然と視界が開かれ、、その瞬間にやるべきことが光が差すように 「見える」 ようになる、、
あるいは、、不思議な閃きや、行動が、、内発的に起き始め、、
迷いなき一歩、、ストーリー (思い込み・「重い」 込み) を持ち運ばないシンプルなスタートを切れるようになったりするものです、、
ま、これを、、無明に対して、、「光明 (こうみょう) 」 などとも言うのでしょうが、、
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注意すべきは、、「光明」 に辿り着く、それを実現するといったところの、「目的志向」 で以て、
これを目指そうとはしないようにするということです、、
というのも、、実際のところの、、この 「光明」 こそが本来の状態であって、
「無明」 がある意味では、「特別な状態」 とも言えるものだからです、、
「光明で在る」 ということは特別な状態では決してなく、、
はじめから、そうで在ることが私たちの自然な姿であり、、
本当のところで、それを失ったことなど一度としてないという前提を踏まえるならば、、
求道の本質は、、「光明」 を 「目指す」 ことではなく、、「無明」 を 「取り消す」 ことであると言って良いでしょう、、
「今」 や 「ゾーン」 がやって来たり消えたりしているわけではありません。
やって来たり消えたりするのは思考やストーリー、つまり、
つねにここにあってすべてを包含している存在の根拠を見かけの上で曇らせている誤解です。
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思考の中には、役立つものや実用的なものもありますが、
私たちの考えの大半、おそらくほとんどが、
苦しみと混乱を生む以外のことは何もしていないということに注目しても良いでしょう。
気づきがあると、思考が役立たなくなったときや、
強迫的なループに陥ってしまったときに、そのことを感じられるようになります。
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思考が脇にどくと明晰さが現われ、すると突然、絶対的な確信と共に何をすべきかがたちまちわかり、
問題の解決方法が見えます。誰にでもそういう経験はあるのではなないでしょうか。
(ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ