求道に関する問いや、悟りの 「発見」 というのは、、
「考える」 ことで辿り着くという類のものではありません、、
そうではなく、まさに文字の如く、、自ら 「見る」 ことによって明らかにされるものだと言えるでしょう、、
ですから、この点が 「悟りメッセージ」 と 「哲学」 との違いです、、
悟りメッセージは、、考えて、考えて、考え抜いて、、というアプローチの迷妄性を知っています、、
というのも、、「考える」 というアプローチができるのは、、物事に対する 「上書き」 だけであって、
その時点で、リアリティとの 「距離」 が生まれているということになり、、
「距離」 即ち、、分離作用そのものということを知っているからです、、
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リアリティは、「考え」 では辿り着くことができない、、ということを本当のところで認めてこそ、、
私たちは、その真の姿を 「見る」 ことができる、とも言えるでしょう、、
なぜなら、真実は、、「見つけ出さなければならないもの」 ではなく、、
むしろ、、それを見えなくしているもの、、即ち、、
それについてあてがわれた 「考え」 のすべてを取り消すことによって、、
自然と見えてくるものであるからであり、、同時に、初めからそれを知っていたのだと 「思い出す」 ことだからです、、
仏教における卓越した師であるナーガールジュナは、
現実を概念でとらえて把握しようとするやり方は、どんなものであれ誤った前提に基づいていると指摘したとされています。
そう指摘したナーガールジュナは、現実を概念で正しくつかむ方法を決して示しませんでした。
思考意識は必死になって正しい公式を求めますが、ナーガールジュナはそういったものを一度も与えなかったのです。
概念は絶対に真実ではあり得ないということは彼にとっては明白でした。
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固定した見方をすべて手放して何にもつかまらず、概念を持たずに今にあり続けること、
これが空です。 (ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ