そう言えば、、
非二元翻訳家のヒロさんが何年か前にアメリカで開催された、
「科学と非二元会議」 に参加した時の、とある話を思い出しました、、
ジョーンさんが話されていたトークの最後に、気難しい感じの男性がかなり込み入った長い質問をしたとのことです、、
一瞬考えた後、、ジョーンさんの口から出てきたのはこんな言葉だったとか、、
「その質問にあと1分で答えろですって? そうねぇ、、うーん、わからないわ!」
この時の、とびっきりの笑顔で回答者に返した彼女の様子が、
ヒロさんがジョーンさんの本を翻訳するきっかけになったとかなんとか、、
そんな話がよぎりつつ、、また一方で、、
釈迦から数えて二十八代目?禅宗の開祖とされる、
達磨大師こと、ボーディダルマが中国へ渡った際のとある逸話と重なったものです、、
達磨を出迎えた時の皇帝は、自らの徳を否定され、、(達磨の 「無功徳」 )
怒りと狼狽で気が動転する中、、二人の間でこんな問答があったそうです、、
※ハリーアレンジ込みでどうぞ!
だだだだ、、達磨大師!では、「私」 とは一体何なのですか??ヾ(▼ヘ▼;)
私の内側には何があるというのですか??
あなたがあなただと思っている個人など居やしない、、
究極のあなたは、、空 (くう)、、空っぽにして広大な空だ!( ̄ー ̄)
なななな、何を分けのわからないことを!!ヾ(。`Д´。)ノ
だったら、私の前に居るあなたは一体何者なのです!?
誰が私の目の前に立っているというのですか!?
知らん!!!( ̄ー ̄)
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これは、まさに、東洋版、「無知の知」 とも言える場面ですが、、
真実は○○だ、悟りは○○だ、私は○○だ、、などと言ったところで、、
どんなものであれ、それが言語というフィルターを通している時点で、
それ自体との 「距離」 が生じているため、ダイレクトではなくなり、
思考が生み出す空想上の産物 (仮のもの)、イマジネーション (ストーリー) になってしまっているというのは否めません、、
あるいは、それらによって限定化された 「枠」 で覆われ、分割されて 「何か」 になってしまった時点で、、
本来 「分けられない」 ものを分けている、二元感覚 (抵抗) が起きているということも言えたりします、、
というわけで、上記ジョーンさんも、そして、達磨大師も、、
相手をあしらい、不親切なふるまいをしたのではなく、、
相手の 「迷い」 の根幹、、「分かろう」 とするエネルギー、
何事も 「分け」、「とらえられる」 ものにして所有しようとする個人の感覚を静止し、
分かるものも、分けられるものも、つかめるものも何もないのだという開かれた非二元性の地平を指し示したと言えるかもしれません、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ