さて、昨日うっかり登場した、達磨大師、、
知らん!の逸話は個人的にとても痛快ですが、、
その前振りにもなっているこちらの逸話、、
時の皇帝武帝は、当時東洋中に知れ渡った高僧が中国へやって来るとあって、
皇帝自ら、国境まで出迎えに上がったとかなんとか、、
当然、達磨大師を前にするや、、いろいろな質問を尋ねたのだろうと推察されますが、、
その中でも有名なのが前回のと加えこちらのくだり、、
※例によって、ハリーアレンジ込み込みでお送りします、、笑
達磨大師!私は、国中に寺院を建立し、、その数は今や数千にも上ります!(`・∀・´)
そうした功績を踏まえて、ぜひお答え頂きたいのです!
果たして、、私はどれほどの徳を積んでいるのでしょうか??(人´∀`*).
武帝殿、、それはなんとすばらしいことか、、
あなたは極楽浄土間違いない、私がそれを保証いたしましょう、、
といった答えを当然期待していた武帝ではありましょうが、、次の瞬間達磨から出た言葉がまさかのこちら、、
無功徳!!( ̄□ ̄)
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さて、この一連の様子について、仏教的にどう解釈されているかはよく知りませんが、
あくまで、求道という観点から見てみようと思います、、
達磨がなぜ、、無功徳!!ときっぱり言い放ったか、
その背景はおそらくこんな感じかもしれません、、
即ち、「自分は多くの徳を積んでいるに違いない」、「自分とはこれほど偉大な人物だ」、、
といった観念を所有し、個人的な持ち物であるかのように持ち運ぶといった、
いわば、それに執着する様相こそ、、「恐れ」 に端を発した自我性が、、
まさにその 「恐れ」 の反動によって 「自分」 という感覚を肥大化させ、二元感覚を鋭くしいる様相であるため、、
達磨はまさに、その 「実体ある誰か」 の振りをしている自我をまさにその言葉で粉砕しようとしたと言えるでしょう、、
゚・゚*・(゚O゚(○=====( ̄ー ̄*)o
まぁ、、「自分の功績」 もなければ、「徳」 もない、、
さらには、「それを所有しいると思っている自分」 でさえ幻想であるなどと突きつけられれば、、
当然自我は、「自分を自分たらしめているもの」 の実体性を守ろうとするため、、
強烈な反発に出ます、、これが前回書いた、その後に起こる、怒り心頭、狼狽といったところにつながるわけです、、
もちろんこれは、、達磨による単なる、皇帝の 「個人性」 に対する批判や否定に留まらず、、
その 「個人性」 の持つ、収縮の正体に気づかせその根底に何があるかを見抜かせることで、
非二元的な開かれた在り方へのガイドポインターの役割もあったのかもしれません、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ