道で仏陀を見かけたら殺せ、、
これは、臨在禅の開祖、臨在の言葉であるとされています、、(;'∀')
この言葉だけでも、彼がどのような人物であったかがひしひしと伝わって来て、
私にとっては、実に痛快です、、
宗派には関係なく、仏に帰依する者、修行を積む者らが、、
その求道上の道において、、黄金に輝く仏陀が目の前に現れたり、
天から舞い降りてきたり、自分のもとへ歩み寄ってきたりするといった場面に遭遇した際など、、
上記、臨在禅師が言うような鋭いガイドポインターがなければ、
おそらく多くの修行者たちは、それが 「達成」、あるいは、「悟り」 であると 「誤解」 してしまうことでしょう、、
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悟りの一瞥体験などと同じで、、瞬間の超越性や神秘的な体験に固執してしまえば、、
すぐさま、思考の 「固定化」 と、自我の 「所有性」 にハマってしまうことは否めません、、
それを祭り上げ、、繰り返し語り、何度も思い出しながら、その経験を再現しようとしたりすればするほど、
今、目の前に現れているこの瞬間の出来事との距離 (あるいは分離) が生じ、
今ここに居ながらに、今ここにないものの中にエネルギーを注ぐ結果になってしまいます、、
これは、ある意味で、、「エネルギーの空振り」 であり、「エネルギーの漏れ」 の状態とも言えるものですから、、
真のリアリティであるところの今こことの同調、調和といったものが、ある面、起きにくいなどとも言えるのです、、
お馴染みの例えではこんな感じ、、
遠足に出かけた日曜日の解放感と高揚感が忘れられず、、
目の前には月曜日の日常が現れているというのに、、依然日曜日に魅了され続け、
さらには、日曜日に何とか戻れないものかと無用な奔走と消耗に明け暮れつつ、
どうあっても戻れないということが分かりながらも、その現実を素直に受け入れない場合には、
月曜日との比較の中で落胆しストレスを感じる、、といったところです、、
けれども、こうした時、、日曜日などどこにも存在しないという明白さに目覚め、、
目の前に現れているリアルな月曜日にシンプルに出会うということができたとき、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
私たちは、真実と手をつないでいるのです、、ヽ(*・ω・)人( ̄ー ̄*)ノ
というわけで、私たちが本当に帰依すべきは、記憶の中の黄金の仏陀でも、超越的な悟りの経験でもなく、、
今目の前にある、その出来事、行為、出会いなのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ