というわけで、私たちにはビルトインで自我性のプログラムが組み込まれているため、、
「悪天候」 を避け、「晴れの日」 を望むといった傾向はごくごく自然なことだと言えるのですが、、
けれども、一般的な天候と同じで、、自分の 「都合」 に合わせた 「形」 が延々と維持されるということはまずなく、、
その時の諸条件、、天文学的な相互作用のバランスの中で、、
「好都合」 なことが一転、、「不都合」 なことに様変わりをするといったこともしばしば起こり得る話です、、
こうした時、、「晴れの日」 といったところの、「好都合」 ばかりが延々と続いてほしい、この状態を何としても維持しなければならない、などと思ってしまうと、、
余計に、「晴れの日」 と 「悪天候」 の間の二元的な分断の溝が深まり、、
仮に、「悪天候」 の日が現れるや、それを受け入れることができず、混乱し、狼狽するといった反応に伴って、、
すぐさま、現象に対する 「抵抗」 の感覚がさも当然であるかのように常習化してしまうことさえあるものです、、
しかし、「晴れの日」 ばかり、、「個人的な都合」 にかなった形ですべてが生じることはなく、、
「悪天候」 でさえも、、生 (全体性) のダンスの一部であるということを認めることができると、、
まったく新しい可能性が開き始めます、、
実際のところ、「苦しみ」 というのは、「現象そのもの」 が有しているということを私たちは信じてしまいがちですが、、
注意深く見てみると、、「現象」 に対する抵抗、、闘争や逃走といった感覚から生まれる、
非受容性の中にあるということが少しずつ見えてきて、、
「苦しみ」 にとらわれることなく、現象と 「出会う」 やり方、受容と共に歩いて行けるやり方を見出し始めることもあるでしょう、、
<ここ・今> は常に至福に満ちているわけではありません。
まったく至福どころではないということもあり得ます。
それでも、逆説的ですが、すべてを今この瞬間にあるとおりにし、そこから離れずにいることで、
至福 (もしくは喜び、平安、愛、自由) が本当はどこに存在しているのか、
何がそれを見えなくしているのかに気づき始めます。
唯一の至福はこの瞬間の中心、まさにここにあるということが分かり始めます。
それから、苦しみとは、逃げること、あるいは至福をどこか別の場所 ----- 「外側」 のどこかで-----
未来のいつかに探し求めることだということも。 (ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ