というわけで、昨日の物語は、、
OSHOおじさんが、老子について語ったTAOという本から若干のヒントを頂いています、、
老子について語る前、OSHOは、様々な聖人賢者について見解を述べています、、
キリスト、ツァラトゥストラ、マハヴィーラ、、そして、仏陀もその一人、、
仏陀についてはこんな感じに、、
私は彼のことを愛している
桁外れにビューティフルだ、壮麗だ、、とした上でこう結論付ける、、
彼は地上にはいない
彼は空を飛ぶ
何の足跡も残さない
彼のあとは追えない
彼には地上部分が抜けている
そして、仏陀を引き合いに出しつつ、老子についてはこう語る
彼は仏陀ほどビューティフルじゃない
しかし、仏陀がいかにビューティフルであれ、仏陀は何かを欠いている
老子は地に深く根差し、大地に根付いている
そしてしかも、空高くにそびえている
老子は天と地の両方なのだ
こうした前振りがありつつも、、禅宗の開祖と言われるボーディダルマのくだりに、、
ボーディダルマが中国へ行った
ボーディダルマは仏陀の <空> を彼の手に携えて行った人だ
彼は仏教の真髄を中国に運び、そこで史上最大の現象が起こることを可能にした
ボーディダルマによって、老子の見地全体
「老子的な生き方」 と 「仏陀の悟り」 とが出会った
そして、最もビューティフルなものの一つが生まれた
世界のどこにもそれに匹敵するようなものは存在しない
それが禅だ
禅はひとつの出会い
仏陀と老子の間の交配なのだ
そしてボーディダルマこそ、その種を老子という子宮へ運んだ産婆役だった
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ま、OSHOらしいドラマチックな語り方もありつつですが、、
というわけで、私が折に触れて、、
禅について、、「相対」 と 「絶対」 をつなぐ道であると言うのはそのためです、、
いわゆる、「悟りの経験」 が一瞬にしろ、あるいは、長期間維持された状態にしろ、、
それが起こることによって、、アジャシャンティさんで言うところの、
「方向感覚の喪失」 といった状態に大なり小なり陥るケースはままあるものです、、
すべてが 「分かり得ない」 ものであるというところの、無分別智、「空」 への転換ののち、、
相対的に 「意味を持つ世界」、「分けられた世界」 を再度目撃すると、、
思考が混乱と行き場のなさを感じつつ、あるいは、自我性のエネルギーで以て、
どうしようもないほどの虚無感や恐れのままに、二元的な閉塞感の中に迷い込んでしまう可能性もそれなりにあったりします、、
つまるところ、、「悟り」 によって 「迷い道」 にハマってしまうという矛盾が起きることにもなり兼ねないといったところです、、
けれども、ここで、「禅」 という衣があれば、、
絶対性を外さずに、相対世界に無理のない形で参加、さらには、そのまま相対の中に全面的に溶け入ることによって、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
より豊かで途切れのない相即相入のダンスがダイナミックに戯れる、「禅定」 へのブレイクスルーが可能になるとも言えるでしょう、、
即ち、、禅は、「悟り」 を語ったり、「祭る」 といったことから手を引き、、
今この瞬間の出来事、目の前の 「今」 に 「出会う」 ことによって、
相対的な分離のエネルギーを吸収し溶解させつつ、見事にそれを昇華させるのです、、
これを、私に禅を教えてくれた禅師は、、「真実を生きる」 という言葉で指示してくれたものです、、
あ、ここぞとばかりの、わが地元の名城、鶴ヶ城の登場でした、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ